長々と前置きが入りましたが、ここから本題です。
以前の記事については
ここへ。
法然上人は比叡山で師である叡空上人と激しく対立した。
まずは戒体についての考え方である。(上巻P192)
戒体というのは戒を授かった時、その授かった人の中に
生まれるもののことである。
それについて、梅原氏はよく分からないとしている。
私もよく分からないが、後に浄土教団が破戒を理由にして
弾圧されたことを考えるとかなり重要かとも思う。
さらに、問題であったのは観仏と念仏のことである。(上巻P195)
現在では念仏といえば、「南無阿弥陀仏」と唱えることであるが、
当時はそうではなく「仏を念ずること」でありその中心は
「仏を観想すること」であった。
この「仏を観想すること」は大変な行である。
極楽浄土をありありと思い浮かべなければならない。
これは極めて難しいので口で南無阿弥陀仏と唱えるように
法然上人は主張したのである。
ところで、法然上人は比叡山を去ったあとどのような行を
していたか。
じつは毎日6万回、死期が近づいたら7万回の念仏という
すざましい行をしていたのである。
いったいどれ位の時間がかかるのか。
私は虚空蔵菩薩の真言を毎日2万回唱える行をしたことが
ありますが、それですら平均12時間位かかっています。
虚空蔵菩薩の真言のほうが念仏より長いことを割り引いても
これより短いとは思えません。
仏教書には法然上人は易行の道を開いたといわれていますが、
普通の人にとっては苦行とは思えても、とても易行とは
いえないと思われます。
ところが、これは易行なのです。 素光
月光浴住職様の(「法然の哀しみ」を読んで)もご覧ください。