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売り場に学ぼう by 太田伸之

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Nobuyuki Ota

Nobuyuki Ota

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2023.08.05
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カテゴリ:ファッション
今日8月5日は三宅一生さん1年目の命日。昨年訃報が伝わってすぐメディアの方々から追悼コメントや寄稿を求められましたが、すべてお断りしました。気持ちの整理がつかなかったから。いろんな出来事がありました。二人でよく食事に行きました。よく議論しました。よく相談もされました。よくケンカもしました。ほぼ毎日のように長めの電話をもらいました。いろんなことがありすぎて、訃報を聞いたときは頭が真っ白、思考停止状態でした。

1年経過したので、そろそろ三宅さんのことを書いてみようと思います。


初めて会った頃の三宅さん

あれは1985年3月初めのことでした。ニューヨークで取材活動をしていた私は一時帰国。パリコレ取材をするのに、ニューヨーク~東京~パリ~ニューヨークとぐるり回るフライトは特別料金で安かったから東京に入りました。帰国して翌日だったか、三宅一生さんから食事のお誘い電話をもらい、西麻布の和食店「さぶ」に出かけました。サシで会うのは初めて、同行者がいなかったので私は遠慮なく正直に自分の意見を述べました。どんなに偉い政治家や経営者でも同行者なしの面談なら遠慮せず自分の意見を言うことにしていますが、この日も世界的デザイナーには遠慮なしでした。

パリコレ発表直前の精神的にも落ち着かないタイミングだったでしょうが、三宅さんは帰国した若造のために時間をとってくれ、私のストレートな発言に耳を傾けてくれました。

このとき私は、当時発売されたばかりの一眼レフ「キャノンAE-1」を引き合いに出しました。このカメラ、プロカメラマンでなくても使えるモータードライブ付き、操作はすくぶる簡単な仕様。プロのカメラマンがパリコレ取材などで使用しているニコンのモータードライブ付きと比べて重量はかなり軽く、シャッターを押すだけで連続してピントの合った写真の撮影ができます。しかも値段はニコンの半分程度、デザインはなかなかカッコいい。近未来パリコレでもキャノンのカメラを使うカメラマンが増え、キャノンはニコンを凌駕する日が必ず来ると予測していました。

キャノンAE-1は、操作簡単で性能がいい、カッコもいい、値段は安い、ファッション商品だって同じではないですか。デザインが素敵で機能的、素材がいい割に安かったらお客様の支持を得られると思います、と申し上げました。これに対して、三宅さんは「僕たちのつくる服とカメラと同じと言うんですか」とおっしゃったので、服もカメラも生活消費財に変わりありませんからと主張しました。

数日後今度はパリコレの特設大型テントの前でばったり、「今晩ディナー後に一杯付き合いませんか」と言われた私はディナーを済ませてから三宅さんが宿泊するホテルに向かいました。そのバーラウンジで、翌月読売新聞社が主催するファッションウイークが東京であるので、ニューヨークには戻らず観てくださいと言われました。日本人デザイナーが初めて一堂に会する大きなイベントと聞いて私は興味を持ちましたが、私の安いフライトチケットはパリから東京には戻れません。一旦ニューヨークに戻り、4月中旬改めて読売コレクション視察のため東京に。

読売新聞社創刊110周年記念イベントのファッションウイーク、現在東京都庁が建つ空き地(当時はまだ広いさら地)に大型特設テント2基を建て、近隣の文化服装学院遠藤記念館も指定会場にして2週間行われました。開催前日の夕方、特設テントでオープニングパーティーがあり、三宅さんに呼び出された私はのこのこ出かけました。会場に入ってコムデギャルソンの川久保玲さんと立ち話をしていたところ、三宅さんが現れ、「二人は知り合いなの?」、そして「このあと一緒に食事しませんか」となりました。

そのあとイベント参加デザイナーが全員ステージにあがって記念撮影とセレモニー、そのあと私たちは会場の真ん前にあるセンチュリーハイアットホテルの中華料理店に向かいました。三宅さん、川久保さんと3人での会食と思っていたら、ステージ上で三宅さんが山本耀司さんにも声をかけ、さらに山本さんのパートナー林五一さん(ワイズ専務)も加わり5人で会食したのです。

その席で、パリやニューヨークのように東京にもファッションデザイナーの組織を作り、短期集中型のファッションウイークを大手新聞社の手を借りず自主運営した方がいいだろうという話になりました。さらに、こうして3人のデザイナーが初めて会食しているんだから、組織の真ん中にニュートラルな人がいてくれたら実現する、あなたが帰国して運営責任者になってはどうかと突然振られました。

私はマーチャンダイジングのプロになりたくて渡米したんです、帰国してデザイナー組織の運営なんて全く興味ありません、丁重にお断りしてニューヨークに戻りました。それから連日東京の三宅さんから電話をもらい、説得が続きました。

最後に「私は蛇ににらまれたカエルみたいですね」と言ったら、三宅さんは「そうです、あなたはカエルです」。「世界で認められているあなたたちが無名の若造の意見を聞くんですか」と返したら、「はい、聞きますから」、もう何も言えなくなりました。4月後半から5月初旬にかけて開催されたニューヨークのコレクション取材を済ませ、ゴールデンウイークの5月5日私は再び東京へ。

帰国してすぐ関係者に挨拶回り、ファッションデザイナーの任意団体「東京ファッションデザイナー協議会」の骨子がまとまったのが5月末、それから一斉に多くのデザイナーに参加を呼びかけ、協議会が正式発足したのが7月8日。予期せぬ話が実現するまで、実にスピーディーな誕生劇でした。私はまさかこんなことになるとは思ってもいなかったのでJALフライト復路のチケットは無効になってしまい、次にニューヨークに行けたのがなんと4年後でした。

3月初旬西麻布で初めて会食したとき、三宅さんには協議会設立構想なんて全くなかったでしょうし、私を日本に呼び戻してその責任者に据えようと考えたこともなかったはずです。パリコレ会場前でばったり遭遇したのも、読売コレクション前夜祭後の5人のディナーも全く偶発的出来事でした。しかしながら、どういうわけか初会食から4カ月後には協議会が正式発足、その秋には早くも自主運営の東京コレクションが開催されました。




​田中一光さんデザインのロゴ​

三宅さんがいつも私に言っていたことがあります。「僕たち(おそらく川久保さん、山本さんのこと)のことは放っておいていいんです。太田さん、次世代の若いデザイナーたちに道を拓いてやってください」、と。なので協議会設立後、若手デザイナーの意見をヒアリングする会食を一緒に何度もやりましたし、そのことを「三宅と太田は若手をオルグ化している」と陰口を言う業界関係者もいました。三宅さんはそんなケチな人ではありません。世界への道がなかったところを手探りで自ら世界への道を拓いた人だからこそ、無駄な苦労はしないですむよう若手をサポートしてやってくれと私に何度も念押ししたのです。

先日、東京コレクションを東京ファッションデザイナー協議会から引き継いだ日本ファッションウイーク推進機構の記者会見でも私は記者の方々にこのように申し上げました。

「私たちが若手支援策でサポートしてきたデザイナーがいまや次の世代のデザイナーの支援を決める選考会の委員を務めています。こういう構図が生まれていることに、あの世の三宅一生氏はきっと喜んでいるはずです。三宅氏はいつも私にインキュベーションを託していましたから」

世界においてクリエイターとしての存在感は別格でしょうが、次世代の育成を願って東京のデザイナー社会をリードした功績も私は声を大にしてみなさんに伝えたいです。

合掌。





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Last updated  2023.08.19 16:05:49
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