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売り場に学ぼう by 太田伸之

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Nobuyuki Ota

Nobuyuki Ota

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2023.08.10
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カテゴリ:ファッション
(前項からのつづき)

CFD(東京ファッションデザイナー協議会)が設立総会、記者会見、設立記念パーティーを日比谷プレスセンターで開催したのが1985年7月8日、翌日から私の仕事は11月開催の自主運営による東京コレクションの会場探し、そしてショーのスケジュール調整でした。

都内の主だった多目的ホールを当たりましたが、4カ月先の会場はほぼ予約済みで空きがなかったので仕方なく大きな特設テントを建てることに。コムデギャルソンが使っていた大型テントが白、先の読売新聞東京プレタポルテコレクションが黒だったので、別注色でライトグレーをお願いしました。場所は渋谷公園通りを上った国立代々木競技場(代々木体育館)バス駐車場です。

テントの製造設営はファッションショーに初めて携わる千葉県富里町の稲垣興業、大手専業メーカーではありません。敷地内の高低差が1.5メートル以上もあって水平の床を設営するのに苦労した会場設営はシミズ舞台工芸(現シミズオクト)、主にスポーツイベントや野外コンサートなどを手掛ける会社でした。しかも設営を開始すると連日雨天、危険な組み立て作業は遅れ気味、これをカバーするために作業員を増やして作業は連日ほぼ徹夜、潤沢ではない予算を管理する私は夜中に電卓をたたきながら業者責任者と追加設備の発注をしました。



会場設営よりも難儀だったのはショーのスケジュール調整。初日トップバッターをやりたい、日があるうちは気分が出ないので夜遅くにしたい、○○さんと同じ日はイヤ、仏滅はやめてくれ、ブランドの要望を聞いていたらスケジュールはいつまでたってもまとまりません。一番苦労したのが最終日のラストショー、いわゆる「トリ」は誰も受けてくれません。NHK紅白歌合戦じゃあるまいしと思うのですが、全ブランドが「トリだけは絶対イヤ」。結局、三宅一生さんにどうにか受けてもらいました。

11月第一月曜日に第1回CFD東コレは始まりました。トップバッターのヨウジヤマモトの音量は地面が揺れるほど大きく、近隣住民から怒鳴られ、渋谷区の騒音測定車が出動する始末。慌てて菓子折りを持って私は近隣住民に謝りに出かけ、騒音測定車のケアもするはめに。そんなさなか、初めてのシーズンなんだから最終日に打ち上げをやろうと三宅さんから提案がありました。連日午前4時まで設営に立ち会って睡眠不足でフラフラ、予期せぬ出来事に追加費用がかかるので金策、そこに騒音クレームの対応、そのうえ打ち上げパーティーの準備をやれと言うのか、私はブチ切れました。

最終日前日夕方、特設テント会場に突然三宅さんが登場、「このあとお茶しませんか」と誘われました。二人で車に乗ってお茶をしに出かけましたが、着いた店はなぜか赤坂のすき焼き店、席に通されてすぐ私はこう切り出しました。

こんな店で私は温かいご飯を食べてるわけにはいきません。(特設テント脇の狭い)事務局テントの石油ストーブで私は作業員たちに温かい豚汁を作っています。彼らは明日のイッセイミヤケのステージ施工で徹夜になるでしょう。施工予算がたっぷりあれば話は別ですが、御社の予算は十分でありません。ならばせめて作業員に弁当と温かい豚汁を夜食として差し入れてやりたい。ここであなたと美味しいものを食べてる時間はないんです、ときつい語調で言いました。

すると三宅さんはお店のピンク電話で事務所に電話をかけ始めました。どうやら作業員に差し入れをするよう指示、「皆さんトンカチ持って作業しているから、果物なら(片手で食べられる)バナナ、ご飯ならおにぎりかお寿司を」と断片的に聞こえてきました。細かい指示はいかにも三宅さんらしいです。

会食中も私は一方的にしゃべり続けました。「ファッションデザイナーの世界は決して華やかだけじゃない。真面目にコツコツものづくりする世界なんだと世間に伝えたい、そう思ってCFDを引き受けたんです。産地の職人や会場施工業者の作業員にも温かい目を向ける、そんなところからいい噂は世間に広がっていきます。そういうことがファッション界には大事って私は思います」。機関銃のようにしゃべりまくり、食事後三宅さんと私は特設テントに向かいました。

小さな事務局テントには三宅デザイン事務所から大量の差し入れがすでに届いていました。あの電話でアシスタントの方がすぐ手配してくださったのです。そして、三宅さんが帰宅したあと作業員の一人が私に「あの人、誰ですか」、「三宅一生さんだよ」と答えると、「あの人毎晩作業を覗きにここにきていました」。三宅さんは東コレの運営が心配で毎晩現場をこっそり覗いていた、私はそんなこと全然知りませんでした。三宅さんの優しい一面を表すエピソードです。

翌日ショー本番の昼下がり、特設テント会場に現れた三宅さんは立ち話をしていたイッセイミヤケ多田裕社長と私の目の前を通り過ぎ、まず会場施工のシミズ舞台工芸の現場監督Oさんに挨拶、そのあと私たちが立っている場所に。昨日の話がきいたかな、と思いました。

最終回イッセイミヤケのショーが始まると、西麻布の料理店「さぶ」での面会から8カ月の怒涛の日々をあれこれ思い出して私は涙が止まりません。横の席に座るシミズ舞台工芸Oさんと連日の雨天で儲けが吹っ飛んだテント屋のS専務ももらい泣き。フィナーレでステージに現れた三宅さんは大泣きしている私たちが目に入ってグッときたらしく、すぐ楽屋に引っ込んでしまいました。

ショーが終わると、三宅さんが作業員たちの紙コップにシャンパンを注いで回り、「みんなで記念撮影をしましょう」。特設テントの前には最終日のために作らせた協力施工業者の一覧を掲示した大きなパネルがあり、作業員は片手にトンカチ、もう一方にシャンパン入り紙コップをもって三宅さんと一緒に写真におさまりました。

翌シーズンからは最終日テント解体する約300人の作業員にふるまった私のカレーライスを作業員が食べながら、ここに三宅一生さんも加わって写真撮影するのが恒例行事となりました。


記念撮影のあと、開催するかか否かで三宅さんともめたCFD初コレクションの打ち上げパーティー会場へ。ショーの運営で問題を起こした参加ブランドのプレス担当数人に準備や受付業務を担当してもらいました。そこで三宅デザイン事務所創業者の小室知子さんが私に関西弁でこんな発言を。


​右から小室知子さん、資生堂元社長池田守男さん、私​

「昨日、三宅に説教したそうやね。三宅も随分偉くなって私たちには言えんこともあります。これからも間違ってるときは間違ってるとはっきり言ってやって」。うっすら涙を浮かべながら声をかけられ、私は帰国して良かったと初めて思いました。でなければニューヨークにはまだアパートを維持していたので米国に戻っていたかもしれません。

日本に呼び戻した責任を感じていたのか、若造が発する耳の痛い話を三宅さんはよく聞いてくれました。気性の激しいクリエイターですから衝突する場面は少なくなく、一カ月以上全く口をきかない、あるいはかかってきた電話には出ないことはたびたび。そういう場合は熱い文言の手紙や仲直りディナーをセットしてくれました。また、両者がぶつかると裏でなにかとフォローしてくれたのが小室副社長、彼女のおかげで決裂を回避できたことは何度もありました。いまとなってはいい思い出です。





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Last updated  2023.08.19 16:05:13
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