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売り場に学ぼう by 太田伸之

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Nobuyuki Ota

Nobuyuki Ota

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2023.08.12
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カテゴリ:ファッション
(前項からのつづき)

20年ほど前渋谷の居酒屋で部下たちと懇親会のあと、ちょっと風変わりなおばちゃん占い師を西武渋谷店の横で部下が発見、私は手相を見てもらうことになりました。「早いうちから親元を離れる運命です」、そりゃそうですよ、遠いニューヨークで8年、東京生活は20年余ですから。「お金が入ってきても貯まりませんね」、その通り、預金残高はずっとゼロに近いです。そして最後に「寅がいつもあなたの行くてに現れます」、そういえばあの方は寅年だ、部下たちは大笑いでした。

考えてみれば寅の方とは不思議なご縁です。

1975年大学生のファッションマーケティング集団を主宰していた私は、テキスタイルのユニチカ大阪本社でのマーケティング調査会議の帰途京都国立近代美術館で開催中だった「現代衣服の源流展」を見学しました。これはニューヨークのメトロポリタン美術館で1974年春まで開催された「INVENTIVE CLOTHES 1909-1939」をほぼそのまま持ち込んだファッション展覧会、京都商工会議所の副会頭に就任したばかりのワコール塚本幸一社長の肝いりで開催されました。


​現代衣服の源流展ポスター​

会場内にはパリオートクチュール黄金期1920〜30年代のポール・ポワレ、キャロ姉妹、マドレーヌ・ヴィオネ、ココ・シャレル、エルザ・スキャパレリの古いコスチュームがズラリ。正直言って最初の印象はどれも素材は劣化してて古臭い服ばかり、防虫剤の臭いがしそうでした。

マドレーヌ・ヴィオネの展示ルームのマネキンに接近してドレスをよく見ると、ステッチはところどころ歪んでる。ステッチが歪んでるなんて高価なオートクチュールなのかと思いながらその部屋を出ようとした瞬間、なぜかヴィオネの服が私を呼ぶんです。もう一度そのドレスのところに近づくとやはりステッチは歪み、素材は劣化、感動はありません。が、再び部屋を出るとき振り返ると、マネキンはまるで美しい彫刻の女神像のような神々しさなのです。

接近して見れば歪んだステッチ、部屋の出口から眺めれば彫刻のように美しい、この落差に何か大切なことがあるのかもしれないと思いました。人間が作るからステッチは歪んでいる、デザイナーや職人たちが一生懸命創作するから不思議なオーラを発する、よしファッションを男子一生の仕事にしてみようと決断した瞬間でした。

家業は大きなテーラー、オヤジからはロンドンのサビルロゥで修行して来いと言われ、英会話とパタンメーキングを勉強していたものの、服が自分の一生の仕事になることに少し疑問を感じていました。学生ながらマーケティングで多くの原稿をメディアに書いていたので、マーケティングのことは頭にあってもファッションにどっぷり入り込めない自分がいました。しかし、古いヴィオネのドレスに出会って、自分はファッションを一生の仕事にしようと決めました。

そしてC F D設立4年後の1989年、京都商工会議所会頭だった塚本さんとお会いしたときにあの展覧会で感動したことをお話したところ、「あれは三宅一生さんがメトロポリタンで感動して私に京都でやれやれと何度も言ってきたから引き受けることになったんだよ」、と。私の人生のターニングポイントとなった現代衣服の源流展は、三宅さんが塚本さんに執拗に働きかけて実現したものだったのです。14年間もそうとは知らず、塚本さんから伺って「へぇー」でした。

男子一生の仕事としてファッションを選んだ私ですが、オヤジが希望するロンドンでもモードの都パリでもなく、マーチャンダイジング習得のためニューヨークに移住しようと考えました。そこで大学卒業の半年前実際に住める都市なのかどうか事前調査のためニューヨークに出かけました。建国200年祭で沸く1976年のことです。帰国していろんなメディアにニューヨークで見たこと、感じたことを寄稿し、その原稿料で渡航費用を穴埋めしましたが、寄稿メディアの1つが月刊メンズファッション雑誌「dansen(男子専科)」でした。


​1976年12月号dansen表紙​

あれから30余年後の2010年、元新聞記者Tさんが面白いものを見つけたと言ってわざわざ雑誌コピーを送ってくれました。それは1976年ニューヨークから戻ってdansenに書いた私の記事、その背中合わせのページは巻頭デザイナーインタビュー最終ページ、デザイナーは表紙にもなっている三宅一生さんでした。発行された1976年当時は全く意識していなかった名前、表紙が誰だったのか全く覚えていません。学生時代にたまたま書いた記事の表てのページが三宅さんのインタビュー記事、ここでも不思議なご縁を感じました。

ところで、C F D設立構想が突然持ち上がった1985年4月、多くのデザイナー関係者やマスコミ人の間でつまらない噂が広がりました。「三宅一生がニューヨークから変な男を連れてきた」。ご自身はパリコレ参加組で東京にデザイナー組織を作る話にこれまで耳を傾けたことがなかった、その人が突然デザイナー組織を作ろうと言い出し、その責任者に仲良しの海外居住の若造を据えようとしている、おかしいじゃないか、と。一部のベテランデザイナーや編集者の間で反発はかなりのもの、私自身も実際に「あんたは三宅一生の犬だろ」とストレートに言われたこともありました。

しかし、私は三宅さんの仲間でも犬でもありません。初めて会話をしたのが3月パリコレに出かける寸前、知り合ってまだ1ヶ月ほどですから友達とは言えません。しかもニューヨークのバイヤー講座で「ファッションはビジネスと言う名のゲーム」とマーチャンダイジングを叩き込まれた私には、展覧会で作品を展示して服はアートと提案してきたようなタイプのクリエイター(私にはそう見えました)は自分の関心外、ずっと距離を置いてきました。それを仲間だ、犬だと言われてもなあ、でしたね。

正式発足するまで恐らく三宅さんの耳にも嫌な噂はいくつか入っていたことでしょう。が、三宅さんはなんの得にもならないのにじっと我慢し、みんなに私のことを理解してもらえるよう丁寧に説明していました。正式な設立総会があった際も、「事務局長には任期の2年を任せます」という参加者の発言に対し「悪いことをしない限り太田さんには一生やってもらいますから」とカバーしてくれました。

さらに、「一緒に若いデザイナーの意見をもっと聴きましょうよ」と若手デザイナーたちを会食に招いて意見を聴いてくれましたが、そのとき流れた噂が「三宅と太田は若手をオルグ化している」、これには二人で笑いました。CFDが東京コレクション運営を20年、そして日本ファッションウイーク推進機構にバトンタッチされて18年どうにか継続できているのは、発足時に三宅さんが私欲を捨て苦手な団体行動を我慢してくれたからだと思います。





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Last updated  2023.08.19 16:04:37
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