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売り場に学ぼう by 太田伸之

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Nobuyuki Ota

Nobuyuki Ota

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2023.08.15
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カテゴリ:ファッション
(前項からのつづき)

あれは1988年秋、代々木上原のおでん屋のカウンターだったと思います。三宅一生さんと二人で食事をしていたら突然相談されました。

総合スーパーのダイエーがプロ野球南海ホークスを買収、新しい球団(福岡ダイエーホークス)を立ち上げるので中内功さんからユニホームデザインを頼まれている。しかし恩のある堤清二さん(西武セゾングループ代表)の手前受けるべきかどうか迷っている。どう思いますか、と。

西武ライオンズのオーナーは西武鉄道の堤義明さん、セゾンの堤清二さんとの兄弟仲はよくなさそうなので引き受けてはどうでしょう、と答えました。その心配よりも野球のことよく知っていますか、試合中にユニホームが窮屈で選手がエラーしたなんてことになったらマズイです、とも言いました。

翌日東京コレクションの施工事業者で東京ドームの指定業者でもあるシミズ舞台工芸に連絡、たまたま近日中に開催される予定だった日米野球のチケットを2枚手配してもらいました。日本のプロ野球全球団と米国メジャーリーグのほとんどの球団ユニホームを一堂に見ることができ、ユニホームデザインの参考になればと思ったからです。

三宅デザイン事務所小室知子副社長に「日米野球のチケットを取り寄せたのでどうぞ」と電話を入れました。小室さんは「お願いだから東京ドームに連れていってよ」。チケットは用意しましたが、日曜日に仕事の延長のようにデザイナーさんと行動を共にするつもりはありません。しかし、日頃何かとお世話になっている小室さんに頼まれると断れず、私は三宅さんと一緒に日米野球の観戦に出かけることに。

その前日私は別の会食があって強度の二日酔い、胃はムカムカ身体はだるく最悪のコンディション。そんなこと知らない気遣いの三宅さんはドリンクやデッカいドームアイス最中を注文。お気持ちはありがたいけれど二日酔いの身にはこたえました。このとき日米どのチームのユニホームがかっこいいかという話になり、シンプルでスッキリしたニューヨークヤンキースが一番いいねと意見は一致しました。

東京ドームでニューヨークヤンキースのピンストライプが一番かっこいいと盛り上がったんですが、完成した福岡ダイエーホークスのユニホームはヤンキースとは対極のユーモアあるデザイン、当時のプロ野球には珍しくコミカルなものでした。三宅デザイン事務所のデザイナーの間でコンペ、その中から三宅さんが選んだデザインに手を加えたものだったと記憶しています。特にホークス(鷹)の目を可愛くあしらったヘルメットが印象的でしたが、世間ではこれが賛否両論、中には批判的メディアもありました。


賛否両論だった福岡ダイエーホークスのユニホーム


​​特にコミカルだったヘルメット

余談があります。堤義明さんがオーナーの西武ライオンズは堤清二さんとは直接関係ないので請け負っても大丈夫と私は思っていました。が、堤清二さんの西武セゾングループは総合スーパーの西友ストアを傘下に持ち、ダイエーと西友ストアは売上でしのぎを削り、商人の中内さんと文化人の堤さんは肌が合わない。盟友がライバルの球団ユニホームをデザインするなんて堤清二さんには面白くなかった、と後日西武セゾングループ幹部から伺いました。私の大きな勘違いでした。

ユニホームといえばほかにも思い出があります。某大手金融機関のユニホームコンペです。1995年東京ファッションデザイナー協議会を退任して百貨店に移籍してすぐ、全国の窓口業務の女性ユニホームを新調するコンペがあると情報が入りました。どうやら我が社はコンペに出遅れたらしく、芦田淳さんや稲葉賀恵さんにデザイン委託して参加した百貨店もあり、三宅一生さんに頼んでもらえないかと幹部から相談がありました。

選にもれるかもしれないコンペ参戦を世界で活躍するデザイナーにお願いするのは失礼でしょう。でも、聞くだけは聞いてみようと三宅さんに相談しました。毎日着用するユニホーム、プリーツプリーズではどうでしょうと提案したら、三宅さんはそれは面白いかもしれない、やってみましょうと快諾してくれました。10年間デザイナー組織の運営ご苦労様という意味もありました。

私は出来上がったサンプルを持って実際に着用する女性スタッフが審査員を務めるコンペ会場に。いろんな組み合わせが可能、シワにもならず、自宅洗濯機で簡単に洗えてすぐ乾く、デザインはシンプルでも特徴がはっきりしている点を丁寧に説明しました。審査員の女性たちは興味ありそうな表情、私はそれなりの手応えを感じました。

ところが、最終的にコンペを勝ち取ったのはどのデザイナー作でもなく、応募の中で最も平凡なデザイン、ユニホーム専業メーカーの既製品カタログに載っていそうな代物でした。こんな平凡な服が選ばれるなら何もコンペをしなくてもいいのに、釈然としませんでした。後日談として、コンペの評価基準はどうやらデザインではなく別の事情があったのではないか、コンペに敗れたほかの百貨店の間でもそんな噂がありました。

もうひとつユニホームで思い出すのは、1992年バルセロナ夏季オリンピックでソ連から独立したばかりのリトアニア選手団のために三宅さんが無償でデザインしたユニホーム。

1991年9月ソ連からようやく独立できたリトアニア共和国は翌92年2月のアルベールビル冬季オリンピックで国名リトアニアとして開会式に参加。入場行進はたった数名、ユニホームを制作する時間も資金もなく個人バラバラの装いでした。このとき全米に実況中継していたNBCテレビはCMを入れリトアニア選手団の行進シーンはカット、やっとソ連から独立できたリトアニア人念願の国名プラカードはオンエアーされませんでした。

祖国名がオンエアーされず悔しい思いをしたリトアニア人の在米医師でイッセイミヤケメンのお客様は、この開会式のあと三宅さんに手紙を送りました。世界的クリエイターがリトアニア選手団のユニホームをデザインしてくれたら、次のバルセロナ夏季オリンピックで入場行進がカットされることはない、協力してもらえないだろうか、と。

手紙を受け取った三宅さんはさっそく石津謙介さんに相談、石津さんの働きかけもあってミズノが制作納品することで話はまとまり、たった数ヶ月の準備期間でプリーツ加工した面白いユニホームが完成。もちろん実況中継でリトアニアの行進はカットされることはなく、その斬新なユニホームは大きな話題となりました。


リトアニア選手団ユニホーム(故・石津謙介先生サイトより)

問題はここからです。ニューヨークタイムズ紙東京特派員から東京ファッションデザイナー協議会に電話取材が入りました。「三宅一生氏がデザインしたリトアニア選手団のユニホームはかなり話題になっているが、日本選手団のユニホームは話題になっていない。これについてあなたの見解は」、「あなた自身は日本選手団ユニホームをどう評価するのか」、「どうして三宅一生氏は日本ではなくリトアニアに協力するのか」。私にそれを訊きますか、と逆に質問したくなる質問の連続でした。

大相撲のハワイ出身大関小錦に外国人力士への差別問題をコメントさせて報道した記者(この記事で小錦さんは窮地に陥ったことがある)、質問はかなり執拗、私になんとか問題発言をさせニュースにする意図が見え見えでした。この記者が誘導質問を並べて私に言わせたかったことは想像つきます。

当時の私はどのデザイナーとも等距離でいなければならない立場。このとき日本選手団のユニホームデザインを委託されたのは別の有名デザイナー、しかもデザイナー協議会メンバーでもあります。協議会を預かる私がこの記者の誘導質問に引っかか流わけにはいきません。

正直なところ、あのプリーツユニホームは技術的にも視覚的にもオリンピック開会式の歴史に残るデザインの1つだったと思います。いまだったら取材に答えられるんですが....。
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Last updated  2023.08.19 16:02:12
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