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売り場に学ぼう by 太田伸之

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Nobuyuki Ota

Nobuyuki Ota

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2023.08.17
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カテゴリ:ファッション
​(前項からのつづき)​

長い間私たち流通業界関係者が現時点のブランドポジションを調べる上で目安としてきたのが、フランスの業界新聞「ジャーナル・ドゥ・テキスタイル」です。ミラノ、パリコレが終了後、各国の主要バイヤーとジャーナリストにそのシーズンのコレクションの評価を投票してもらい、半年後のパリコレ会期中に紙面で投票結果の詳細を発表します。年2回あり、カテゴリーはバイヤー選出部門とジャーナリスト選出部門に分かれています。


​​参考にしてきたジャーナルドゥテキスタイル紙​​

バイヤー部門は、自店が独占販売していたり特別プロジェクトで関わっているブランドに投票しがち、ちょっと偏っています。たとえば、サンジェルマンにあったオンワード樫山フランス法人セレクトショップのバスストップは、いかなるシーズンも自社が発掘して育てたジャンポールゴルティエの名を第1位に推挙します。伊勢丹パリオフィスは当時ライセンス提携していたカールラガーフェルド(シャネル、フェンディではなくカール自身のブランド)を上位に。どの小売店がどのブランドに投票したのか細かく実名掲載されるので、業界通なら投票者の贔屓目も頭に入れて結果を受け止めます。

一方のジャーナリスト部門は、インターナショナルヘラルドトリビューン、ルモンド、フィガロや名だたるフランス雑誌の記者が投票、バイヤー部門よりも信ぴょう性が高く、ブランド人気のバロメーターとして参考になります。概してバイヤー部門はクリエーションだけでなくビジネスとしてどうなのかも加味しての判断、ジャーナリスト部門は斬新さに投票のウェイトがおかれているように感じます。

私も百貨店としてブランド導入を検討する際、このブランドランキングのジャーナリスト部門の結果をバロメーターとして活用させてもらいました。

このランキングが誕生した頃、パリコレではケンゾー、クロエ(カールラガーフェルドがデザイン)、イヴサンローランがしのぎを削っていました。その後は彗星のごとく現れたジャンポールゴルティエがほとんどのシーズン第1位を独占。日本のビッグスリーが上位を占拠した時期があり、その次はマルタンマルジェラやドリスヴァンノッテンらアントワープ勢のランキングが上昇、ロンドン育ちのジョンガリアーノ、アレキサンダーマックイーンが手掛けるブランドが脚光を浴び、さらにプラダ、トムフォードのグッチなどミラノブランドがパリ以上の評価を受けるなど、時代と共にコロコロ主役は変わりました。

1998年パリコレ出張のあと百貨店の大きなリニューアルを計画するきっかけとなったのは、このフランス業界紙ランキング表でした。この時点で上位20傑に入っているブランドのうち、新宿伊勢丹が13ブランド、池袋東武百貨店が7ブランド導入しているのに対し、銀座のわが社が導入していたのは1つだけ、しかもそれは日本のイッセイミャケでした。世界のジャーナリストが評価している旬のファッションブランドのトップ20のうち、インポートはゼロ、日本のビッグスリーは1つ、ランキング表と都内百貨店の導入実績を調べて愕然としました。

売れる売れないのものさしだけでは百貨店の存在価値はない、銀座のワンブロックを占有する百貨店ならば、世界が認めるブランドをある程度揃えるべきでしょう。当時の社長に訴え、大きな改装とブランドの入れ替えを計画、一気にランキング上位ブランドを導入できました。ルイヴィトン、ディオール、セリーヌやヨウジヤマモトを導入したのはこのときでした。

ところで、1970年代前半イッセイミヤケがパリコレに登場して以来、三宅一生さんは多くのクリエイターに影響を与え、世界のメディアや小売店に高く評価され続けました。このランキング表に初めて名前が記載されてからイッセイミヤケのデザイナー交代までランキング外になったことはないのではないでしょうか。初めて記載されたデザイナーが現役の間はずっと高く評価され続けた例、ほかにいないかもしれません。多くは全盛期とは比べものにならないくらいランキングが落ちてからのバトンタッチ、もしくは創業者の逝去でデザイナー交代が普通です。人気上位ポジションをずっと維持し続けるのは難しい、それが時代と共存するファッション界の宿命だと思います。


​絶賛された1992年春夏作品は本の表紙に​

このランキング表でもう一点触れておきたいのは、ヨウジヤマモト、コムデギャルソン、イッセイミヤケの日本ビッグスリーはそれぞれ1回ずつフランスの人気者ジャンポールゴルティエを抑えてランキング1位になっていること。私の記憶違いでなかったら。

そして、イッセイミヤケが第1位になったシーズンは、ウイリアムフォーサイスのダンスチームがモデルとしてパリコレに登場、ステージいっぱいにいろんな種類のプリーツ服を着たダンサーたちが笑顔で踊りまくった1992年春夏ショーでした。ダンサーが跳ねるたびにビョンビョン上下に動くプリーツの重ね着の美しさと楽しさ、いまもはっきり記憶に残るパリのベストコレクションだと思います。

パリコレ初参加が1973年ですから、第1位になるまでおよそ20年。デビュー直後からその考え方やデザインが高く評価され、常に人気上位20傑を維持し、後年に再び評価をあげてトップになる。音楽や映画の世界でもなかなかできることではありません。


​よく意見交換しました​

その2年ほど前、三宅さんを誘って小さなカウンターバーに行きました。イッセイミヤケが高圧高熱で加工したプリーツのコレクションに力を入れ始めて数シーズン経過、一部のメディアの間でプリーツ加工物に「ちょっと飽きたね」という声が陰で出始め、友人として耳には入れておこうと誘いました。お酒がまわってそろそろしゃべってもいいかなというタイミング、ここで三宅さんがハンカチを折り曲げながら「ここがプリーツでうまく表現できなかったので次は絶対に成功させたいんです」、と。

業界の陰の声を伝えようとした瞬間、逆にプリーツにはまだやれることがあるとハンカチで説明し始める三宅さん、ものづくりのものすごい執念を感じました。ブレずにとことん突き詰めるクリエイターの姿勢に余計なことを言ってはいけない、と私は黙って帰りました。

その数シーズン後のことです、着る人の動きによってビョンビョン上下に動くシワ加工商品も、インダストリアルデザインとして面白い新ブランド「プリーツプリーツ・イッセイミヤケ」も、縦にも横にも伸びるストレッチプリーツの「ミー・イッセイミヤケ」も発表されたのは。前項で触れたバルセロナオリンピックのリトアニア選手団ユニホームもプリーツでした。元々私たちの中にあったイッセイミヤケは意匠性の高いテキスタイル、ナチュラルカラー系、ゆったりオーバーサイズ、一枚の布がイメージでしたが、いつの間にか「プリーツ=イッセイミヤケ」になりました。

パリのポンピドゥーセンターが「ビッグバン 20世紀アートの破壊と創造展」(20世紀の建築、インテリア、家具、アートなどを総括する展覧会)を2005年に開催したとき、ファッション分野で展示されたのはシャネルでもディオールでもサンローランでもなく、なんとプリーツプリーズのみでした。同展の学芸員は歴代クチュリエではなく、デザイナー服を一般大衆に解放した日本人クリエイターの工業製品的作品をあえて選択したのです。学芸員の見識も素晴らしい、その気にさせた三宅さんの衣服への情熱、考え方もまた素晴らしい。

私は若いデザイナーさんによく言います、「あなたの十八番(おはこ)を作ってください」と。ブレることなくとことん追求するクリエイターの執念、それがブランドDNAとして後継者に受け継がれていく。大デザイナーから教わったことです。​


​若手デザイナーにテキストとして薦めてきた本​
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Last updated  2023.08.19 16:01:23
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