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売り場に学ぼう by 太田伸之

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Nobuyuki Ota

Nobuyuki Ota

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2024.01.06
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能登半島地震の被害者の皆様の労苦をニュースで見るたび心が痛みます。いまも強い余震が続き、断水に停電、道路は遮断されて救援物資は届かず、かなり厳しい状況に変わりありません。1日も早い復旧をお祈りします。

年明け早々写真家篠山紀信さんの訃報が届きました。そして、篠山紀信さんの名前を聞くと反射的に思い出す方がいます。三宅一生さん(1938年ー2022年)の創業パートナー小室知子さん。このブログ「交友録40」でも少し触れましたが、私が尊敬するファッション業界人のお一人。イッセイミヤケグループの「落穂拾い」を自認、グループの扇の要であり、社員たちにはお母さんのような存在です。


右)小室知子さん(中)資生堂池田守男さん 1997年撮影

まだ米国まで直行便が飛んでいなかった時代、小室さんはメーキャップアーチストを目指して米国西海岸に留学するはずでした。ところがいまで言う留学詐欺に引っ掛かり、現地入りするも目指す学校には入学できなかったそうです。せっかく米国に渡ったのだから1年くらいは住んでみようと遊学を決め、帰国して講談社の女性誌編集長と出会ってファッションページを担当する仕事に。その頃多摩美術大学を卒業してフリーランスだったパリ留学前の三宅一生さんと出会います。


帰国後小室さんが関わった女性誌表紙

アンアン、ノンノが発行されていなかった頃の女性誌は巻頭カラーの数ページをファッションにあてていました。婦人服メーカーや小売店、ファッションデザイナーの作品を紹介する巻頭ページに大学を卒業したばかりの三宅さんに声をかけましたが、個人で服を作っている青年にはサンプルを制作する十分な資金がありません。企業やすでに活躍しているデザイナーから撮影用サンプルを無償提供されるのが当たり前だった時代、「制作費はどうなるんですか」の三宅さんの質問にはハッとしたそうです。このやりとりで小室さんにははっきり記憶に残るデザイナーとなりました。

その後、三宅さんは鯨岡阿美子さんらに勧められてパリのオートクチュール協会が主宰するモード学校に留学、オートクチュールメゾンのジバンシイやギラロッシュでアシスタントとして働きます。1968年三宅さんはパリ五月革命に遭遇して「特権階級のためのオートクチュールでなく、一般市民のための既製服を作ろう」と時代の変化を感じてニューヨークに移り、米国トップデザイナーのジェフリービーンで既製服作りを体験して帰国しました。

一方の小室さんは雑誌の世界からスタイリストとして広告業界に身を置きます。天才CM作家としていまでも語られる杉山登志さん(1936年〜1973年。「リッチでないのに リッチな世界などわかりません ハッピーでないのに ハッピーな世界などわかりません」という遺書を残して自殺)や、カメラマンの横須賀功光さん(1937年ー2003年)と組んで資生堂などのTVコマーシャルや広告写真撮影に携わっていました。ちなみに「貼っても貼ってもすぐ盗まれるポスター」第1号は前田美波里がモデルとなった資生堂のポスター(写真下)、そのスチールは横須賀さん、映像は杉山さん、スタイリストは小室さんでした。



前田美波里を起用した資生堂ポスター(撮影:横須賀功光)

そして、湘南海岸で運命の再会。湘南に遊びに行った小室さんは、あの青年デザイナーとバッタリ遭遇します。いずれ日本でデザイン会社を作りたいと三宅さんから抱負を聞いた小室さんは、仕事仲間だったカメラマンたちに出資協力を呼びかけ、下落合の自宅マンションを登記所在地に1970年株式会社三宅デザイン事務所を設立します。このとき小室さんは弱冠30歳寸前、新進気鋭の写真家だった横須賀功光さんや篠山紀信さんよりも若い女性、思い切った決断でした。

もうひとつエピソードを。杉山登志さんと共に旭化成のCM撮影地で小室さんは宣伝部の女性社員から「どうやったらスタイリストになれますか?」と声をかけられます。それから数年後小室さんが彼女の姿を再び見かけたのは、最初に三宅デザイン事務所がオフィスを構えた赤坂の小さなマンションでした。なんと上層階であのときの女性は一足早くファッションブランドを立ち上げていたのです。誰だかもうおわかりですよね。世界の次世代デザイナーたちに多大な影響を与えたジャパンブランド2つは偶然にも同じマンションにオフィスがありました。

1970年に創業、翌年にはニューヨークでコレクション発表、1973年にはパリコレに参加してイッセイミヤケの名前はあっという間に世界で知られるようになりました。三宅デザイン事務所には多くのデザイナーやパタンナー、テキスタイルデザイナーが集まり、巣立って行きましたが、グループを卒業した後も小室さんはずっと目をかけていました。なので退職して時間が経過しても卒業生たちにはお母さんのままでした。

1985年東京ファッションデザイナー協議会が発足、このとき事務所探しはじめいろんな相談に乗ってくれたのが小室さんでした。協議会事務局を預かる私のところにはたくさんのデザイナーやアパレル企業幹部が契約解消や新ブランド立ち上げの相談にやってきました。このとき私が「これをテキストと思って読んでください」と渡していたのが、三宅デザイン事務所創業15年の85年に旺文社から出版された「一生たち」、小室さんの思いが詰まった本でした。


旺文社「一生たち」

この本は三宅さんのクリエーションではなく、デザイン事務所で働く全員のインタビューが収録され、いろんな立場の人がそれぞれ役割を担っていることがよくわかる解説書、言い換えればデザイン会社の企業秘密を公開したような内容でした。デザイナー個人の才能だけではブランドビジネスは成立しない、チームとしての組織力が成功には不可欠と教えてくれるバイブル、だから私は訪ねてくる若いデザイナーたちにこれを配りました。

1985年当時はバブル時代のど真ん中、簡単にブランドビジネスできると勘違いしていた若者や企業が多く、業界全体が浮き足立っていましたから。

協議会の運営方針やメディア対応などで三宅さんと私が意見衝突すると、三宅さんのパートナーである小室さんは私の主張を入れてよく三宅さんを説得してくれました。時には副社長辞任を申し出て部外者の私をかばってくれました。デザイナー企業では創業デザイナーのイエスマン幹部がほとんどでしたが、小室さんのおかげで三宅さんとは衝突してもすぐ和解できました。だから私は長きにわたり年長の三宅さんと遠慮なく話せる関係でいられたのです。​

三宅さんと小室さんは、天才ミュージシャンとバックステージの敏腕マネージャーのような関係だったと思います。「三宅の夢を実現するために私たちは働いています」、このフレーズを何度も聞きましたが、小室さんは黒子に徹してご自身はほとんど表には出てきません。だからマスコミ関係者はイッセイグループにおける小室さんの役割、存在価値をほとんど知らなかったのではないでしょうか。

すでに三宅さんはこの世になく、創業当時からブランドが世界で認知されるまでのプロセスは小室さんしかわかりません。ファッション業界全体のためにも、黎明期のデザイナービジネスの扇の要がお元気なうちにどなたかインタビューして1冊にまとめてくれないでしょうか。大切な秘話がいっぱい出てくると思いますが....。





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Last updated  2024.01.24 23:10:42
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