モディリアーニ展は「モンパルナスの愛と哀愁」というタイトルで1979年(昭和53年)に大丸で開催された時のカタログが家にありました。
そのカタログには、ジャンヌ・エビュテルヌについて、下記のように出ています。
「モディリアーニは、ジャンヌ・エビュテルヌと1917年にパリで会っている。彼女はモディリアーニの忠実な伴侶として、彼の唯一の子どもの母親であったし、また、彼のモデルとしては、1917年から1920年の間に20点以上の肖像画の対象となっている。モディリアーニの死んだ翌朝、ジャンヌ・エビュテルヌは自殺した」
そして墓碑銘が出ています。
「アメデオ・モディリアーニ、画家、1884年7月12日リヴェルノに生まれ、1920年1月24日パリに死す。まさに栄光に届かんとするとき、死が彼を連れ去る。ジャンヌ・エビュテルヌ、1898年4月6日パリに生まれ、1920年1月25日パリに死す。すべてを捧げたアメデオ・モディリアーニの献身的な伴侶」
これはまさにいままでのモディリアーニとジャンヌ・エビュテルヌでした。
今回の展示ではいろいろと修正がありました。出会ったのは1916年ということ。また、アパートの6階から後追い自殺をしたのは、26日の朝5時であること。
そしてなにより、ジャンヌ自身の素描と油彩・水彩作品が多数出てきたことにより、彼女もまた才能豊かな画家であったことが判明したことは大きいです。これまでのただ献身的な女性とみられていたジャンヌ・エビュテルヌのイメージをすっかり変えました。
そして、彼女の作品と合わせて、一枚の写真の登場も、いままでの『モンパルナスの灯』のアヌーク・エーメ的なイメージをすっかり覆すことになりました。
それは16歳の-の写真です。大きく見開いた目。
強い瞳に強い意志と内面の強さが感じられます。
黒い服を着て、長い髪をたらした彼女がじっとこちらを見つめています。
ジャンヌ・エビュテルヌはあくまで画家であろうとしたのだと思います。
モディリアーニと出会う前の作品は、例えば、セザンヌ風であったり、ブュッフェ風であったり、ロートレックのようであったり、作風が一致していません。
モディリアーニと出会った後は、影響は感じられるものの、独自の表現をとっています。
モディリアーニは、ほとんどが油彩の肖像画ですが、ジャンヌは静物画や風景画を描いています。自分自身の画を求めていたのです。
それにしても、なぜに、ジャンヌ・エビュテルヌは、モディリアーニのあとを追って自殺をしてしまったのでしょうか。しかも1人子どもを残し、2人目の子どもを身ごもったまま・・・・・・・。
その死によって甘美なモディリアーニ伝説が誕生したとも言えるのですが。