「お若えの、お待ちなせえやし」でお馴染みの「鈴ヶ森」は、「浮世柄比翼稲妻(うきよづかひよくのいなづま)」という、四世鶴屋南北が文政6年(1823)市村座に書き下ろした芝居の中の一部分が、今日残っているものです。
二人の出会う鈴ケ森は、東海道品川宿の近くにある江戸の処刑場でした。
幕府は、慶安4年(1651)罪人を処刑する刑場を江戸に入る街道口に置きました。
一つは、この鈴ヶ森刑場で、もう一つは、荒川区南千住にある小塚原刑場です。
小塚原刑場にも、泪橋がありました。小塚原刑場跡の近くの思川(おもいがわ)にかかっていた橋です。 現在では思川は全て暗渠化されているため橋の面影はなく、その名前は交差点やバスの停留所に付けられて残っている程度です。
鈴ヶ森刑場跡は、 旧東海道が第一京浜国道に出る角地にあります。 隣りに大経寺があります。 刑場跡は、 東京都史跡に指定されています。
刑場は明治14(1881)年に廃止となるまで利用されたようです。
刑場を通行人が多い街道沿いに配置したのは、犯罪の抑止力を狙ったからです。
鈴ヶ森刑場は、記録によると慶安4(1651)年の由井正雪事件の加担者の一人である丸橋忠弥がはりつけにされたのが始まりです。
天和3年(1683)には八百屋お七、以後白木屋お駒、鼠小僧次郎吉等、芝居で著名な人物が処刑されています。
資料によると「年間死刑者は、小塚原と鈴ヶ森で1000人ずつ」ということですから、200年以上存続した刑死者の数は実に20万以上となります
死罪の方法としては、火あぶり、はりつけ、鋸(のこぎり)引き、獄門等がありましたが、はりつけが一番多かったようです。
はりつけ、火あぶりの場合は、市中引き回しの後、ここで処刑した といわれています。
獄門は死罪より重く、斬首された後3日間首を晒(さら)され後に捨てられました。
火あぶりや はりつけに使用したという石が残っています。
歌舞伎の舞台でおなじみの「南無妙法蓮華経」と刻んだ、ひげ題目(法の字だけが楷書体なので法を曲げないの謂いとなった)を刻んだ石碑は、元禄11(1698)年 処刑者の供養のために建てられたもので、高さは3.2mもあります。
どうも、不気味な場所です。