今日は午後から、新宿歴史博物館に行っていました。
あいにく午後から雨で、来館者は少なく、ガイドのお手本が見られず、残念でした。
ここには、120分の1の大きさで作られた「内藤新宿復元模型」があります。
旅人、遊客相手の旅籠や茶屋が軒をつらねていて、人物も馬もいて、まるで、天からから見ているようです。
新宿歴史博物館の一つの目玉だと思います。
ですから、ここの説明がうかうかむできれば、なんとかなるかな、と思っています。
何名かのガイドを聞いたのですが、人によっていろいろな手法があります。
内藤新宿が誕生した歴史を語る人。
この道筋は、今の新宿通りになるのですが、今にどのあたりになるか、例えば、追分けのあたりに、今の伊勢丹がある、といった話をする人。
江戸の暮らしの話、特に、遊郭、岡場所などをめぐる話をする人。
江戸の旅について話をする人。
なるほど、切り口はいろいろです。
できれば、ガイドする人によって、話を変える、技量がほしいです。
道の分岐しているところが新宿追分け(上)です。追分けは、成木街道(青梅街道)と甲州街道の分岐点のことです。
牛や馬が主要な交通・運搬手段であった頃、二つの道のどちらかに馬や牛を追分けるところから、こう呼ばれたとされます
現在の新宿3丁目、伊勢丹・丸井の交差点あたりになります。
今は、明治通りが交差するため、追分けの名残は感じられません。
そこから、玉川上水の水番所が置かれていた四谷大木戸(下)まで、道が続いています。
それが内藤新宿です。
元禄11(1698)年6月、甲州道中の第1宿として開かれました。
そして、内藤新宿は、品川(東海道)、板橋(中山道)、千住(日光街道、奥州街道)とあわせて、四宿(ししゅく)と呼ばれ、江戸の新たな行楽地としても発展し、岡場所などが繁盛していきます。
「四谷新宿馬の糞の中であやめ咲くとはしほらしい」(馬の糞は活発な馬の往来、あやめは飯盛女・遊女を意味する)と狂歌にも詠われています。