いきなり、高田富士の登山口でした。
人がいてここからどうぞと言われました。
しかし、少し先、登山口の左に、木製の祀堂、浅間神社がありました。まずお参りしてと思いました。狛犬もあります。
登山道を歩きました。整備された道という感じで、落ち着いて登ることができます。
道を左に曲ると、次のカーブのところに「小御嶽」がありました。
背後によしずがはってありました。夏の風情です。
それから、そのまま登ってしまったのですが、実は、次の左折地点に烏帽子石があったのです。見逃しました。すごく目立つ石だったのに、どうしたことかと思います。
高田富士の頂上につきます。小さな祠が立っています。
この頂上は少し広くなっており、小ぶりの石祠と水盤がありました。
前の祠は、小御。そしてこれは水稲荷の提灯がありますが、浅間神社ですよね。
ここには、鐘があるはずなのですが、まだつけられていませんでした。
ただ、そのつきかたが書いてある札がありました。
「鉦の打ちかた カーン カーン カンカラカンのカ~ン 長閑に二回です」
叩くと今年1年の幸せと安全がかなうといわれています。残念でした。
下りは少し急でした。ゆっくり、足下を気にして降りました。
降りると、胎内窟がありました。
傍らには大正2年に建てられた「講祖日行藤四郎翁開發霊蹟・富士山北口胎内窟模造修築記念」という大きな石碑がありました。
近くに、大天狗と小天狗の首の落ちた石像なんかもあったようですが、見落としています。これも残念でした。
最後にこの高田冨士のいわれを記しておきます。
植木職藤四郎という人がいて、毎年夏と秋に富士を詣でること55度。中腹を一周する中道という修行は33度したというほど熱心な浅間信仰の人でした。
安永8(1779)年、宝善寺の境内に浅間大菩薩を勧請しようとして2月3日からかたわらの山を崩して山を積みはじめたところ、諸人がこぞって協力して山ができ、5月28日に各方面の僧侶を呼んで山の開眼を行いました。
この藤四郎は、享保18年(1733)7月、断食行の末亡くなった食行身禄の弟子で、行名を日行と言います。高田富士の講中は丸藤講といいます。
宝善寺は早稲田大学の並びにある宝泉寺のことで、ここには藤四郎の墓石があります。
高田水稲荷はこの宝泉寺が別当を勤める神社で、元禄の頃から、榎の大木から眼病に効くという霊水が湧いていたため、戸塚稲荷と呼ばれていたこの神社は水稲荷として人を集めていたという、言い伝えがあります。
伝承といえば、この藤四郎は船津(現・山梨県河口湖町)にある船津胎内の発見者として知られています。
食行身禄の『一字不説の巻』には神々が富士山周辺の洞窟から出生してくる神話が説かれていますが、その出生地こそその洞窟であると喧伝され、安産のご利益を求めて信仰を集めていました。
今でも船津胎内には藤四郎の木像がコノハナサクヤヒメノミコトとともに祀られているそうです。