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郷土史家で、新宿に関して最も詳しい人といえば、鈴木貞夫氏だと思っています。
その鈴木氏の話を今日は聞きました。 テーマは「鉄砲玉薬(たまぐすり)同心(大久保)」でした。 徳川家康は天正18年(1590)江戸に入ると、すぐに北条氏の残党が西部から侵攻することを予想して内藤清成に四谷口、青山忠成に青山口の防備に当たらせます。 そこで生まれたのが、大久保鉄砲百人組です。 慶長七年(1602)内藤清成は与力25騎と同心百人を預けられ、組屋敷(集団住宅地)を内藤宿及び大久保に設けた、とされています。 今日のお話では、その百人組以前に、鉄砲玉薬同心が入って、御箪笥町の居住していたことになります。 御箪笥町は百人町の隣で、大久保一丁目あたりです。今の歌舞伎町あたりまで来ています。 今日の話は、その御箪笥町に住んでいた、幕末の鉄砲玉薬同心が出世をして、その地域に鉄砲玉薬同心として残った人は、1名だったということで、その出世した同心の4名の お話を聴きました。 その一人、都筑峯重の墓は大久保の全龍寺にお墓があり、そのお墓での研究で、亡くなったのはいつかを調べるとか、内容よりもその研究の仕方に感動を覚えます。もっとも内容は、そこまでの知識がなくよく分からないのですが。 とにかく、まだまだ勉強不足だと思います。 鉄砲玉薬同心と、大久保鉄砲百人組のことは、そのうち調べたいと思います。特に江戸時代<鉄砲>の役割は大きいようです。 解説では、大久保鉄砲百人組は、出世できず、内職につつじを栽培したという話をしているので、その大久保鉄砲百人組と出世した鉄砲玉薬同心との違いなど知りたいです。 その話から、少し脱線して、滝澤馬琴の話もありました。 馬琴は、自分の死んだ後、家族が安定した生活ができるようにと、孫のために鉄砲組同心の株を購入したのだそうです。 四谷の若葉町とか、信濃町の方には百人組や御先手組の屋敷が多かったようです。 馬琴は、それまで住んでいた神田同朋町から、そうした鉄砲組同心関係の住む方に移転しています。 それがどこか、鈴木氏は若葉町あたりで探していたようですが、あるきっかけで、信濃町の地図を見せてもらったことから、そこに馬琴が住んでいたところを発見されたそうです。馬琴の日記に隣ともめていた話が出てきて、その屋敷の名前もきちんと隣に載っていて、間違いない、ととても嬉しかったそうです。 そういうことがあるので、こうした研究は止められないのだということですが、その徹底さには本当に頭が下がります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010.03.16 20:45:32
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