学生として早稲田に通っていたので、穴八幡に何度も行きました。
甘泉園も何度も行ったし、富士塚も見て登ったはずなのに、すっかりその様子を忘れています。
もっと原始的だったことだけは、確かです。
とにかく、穴八幡に関しては、今回知ったことを少しメモしておきます。
穴八幡宮は牛込の総鎮守でありもともとは、高田八幡宮と呼ばれました。
その別当寺が光松山放生寺(高野山真言宗準別格本山)です。
寛永13年(1636年)、幕臣の松平直次らが射術練習のためこの地に的山を築き、弓矢の守護神である八幡神を勧請したことから神社が造営されたと言われます。
同18年(1648)、宮守の草庵をつくるため山すそを切り開いたところ神穴が出現しました。その穴の中から多数の人骨と阿弥陀仏像一体が掘り出されたといいます。
古くからこの近辺を阿弥陀山と称していたこともあって、良昌らはこれを奇瑞として丁重に取り扱いました。
この穴はその後長く保存され、穴八幡の呼称の由来ともなりましたが、現在は埋められてしまっています。
光松山放生寺と言いますが、その光松(ひかりまつ)については、次の言い伝えがあります。
<その昔、戸塚原一帯は松樹の繁茂する森林地帯であった。人口の増加とともに開墾が進み、多くの木々が伐り倒されていったが、その中に一株(一説には二株とも)不思議な松があり、暗夜に瑞光を現ずるというので、誰もこれを伐る者がなかった。このためこの樹を称して光松と呼び尊んだという。松平直次がこの地に八幡神を勧請した際、この光松の樹上に山鳩が毎日のように来たって遊ぶので、これを霊瑞としてよろこんだ。>
このような伝説により、光松は神木として長く人々の尊崇を集めました。
ただし、この松は延享年間に枯れてしまったため、その後生えているのは新しく植えられたものです。
赤い随神門があり、そこに額がかかっていますが、「光松門」とあります。この松が篆書で、普通には読めません。
また、布袋像の水鉢 がありますが、 新宿区指定有形文化財(工芸品)です。
1649年(慶安2年)造立、区内最古の水鉢、と言いますが、(新しい感じです。レプリカかもしれません)。江戸城吹上御苑に置かれていたのが、徳川家光により奉納されたということです。
この穴八幡、 毎年12月冬至から翌年2月節分までの期間に穴八幡宮が授与している御札に「一陽來復」があり、もっと丁寧に歩かないと、いけません。
今回はこの程度で。