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テーマ:大河ドラマ『風林火山』(345)
カテゴリ:映画・TV鑑賞
なかなかおもしろい内容でした。
武田信玄率いる甲州軍は、信玄が家督相続したときから信玄の思い通りに一枚岩として動く集団ではなかった。信玄が長年、部下の扱いに苦労を重ねた結果、晩年になってやっとまとまりのある戦国最強と言われる軍団になった。 という内容でした。それを裏付ける資料の示されていて、なるほどと思いました。 信州もそうですが、甲斐も、もともと中世的武士のつながりが濃く、守護と家臣といっても、独立心が強く、緩やかな連携を為していた。 そういう中で、家臣を強引に引っぱり回そうとする信虎は、家臣にとって好ましいものではなく、家臣団の一部が図って追放し、若年であそび呆けていて御しやすいと見た晴信(信玄)を主君に据えた、というのが真相らしい。 信虎が悪逆非道だとの悪口も、後世の記述にはあるが、信虎の時代の資料には無い。ということですので、この信虎追放の真相はどうもこれが真相ではないかと思われます。 諏訪攻略も家臣らの強い意向で実行され、宿敵と言われている村上義清との対決も家臣が暴走して敗戦に至ったとのことです。 そこで、信玄は山本勘助の助言を入れ、戦争を継続して領土拡張し家臣に与えることで、家臣を手なづけるなど、家臣へのこまやかな配慮をするようになり、第4次川中島の戦では、勘助の作戦が謙信に見抜かれて窮地に立つも、家臣団の信玄を守ろうとする懸命の働きによって窮地を脱することができた。 また、桶狭間以後の今川方面への拡張路線転換での息子との対立でも、息子に死を命ずることで家臣団の結束を固めた。そして三方ヶ原の戦では、統制のとれた見事な作戦で家康を粉砕するに至る。 ということでした。 確かに信玄が、若年にして自ら親を追放して家督を奪い、家臣に君臨して戦でも家臣を自在に操ることができた。などというと、最初から人間放れした天才としか見えないが、そうではなく、最初は家臣団の都合で担がれていた若年者が、敗戦なども経験するうちに、家臣をまとめ、国をまとめる方法を身につけていった。と見たほうが、中世の武士の主従の関係からも実際に近いのではないでしょうか。だからといって信玄の有能さは動かないし、より人間味が出てくると思い、この回は見て得した気分になりました。 同じNHKでありながら、風林火山とは全く異なる内容をやっているところも面白いですね。そのほうが風林火山も、別角度の視点でも見れていいということでしょうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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