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March 9, 2024
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カテゴリ:東京暮らし
東京駅と皇居の間に位置するオフィス街、丸の内。


今も昔も大企業だらけのビジネス街ですけど、今のような雰囲気になったのは、明治維新からしばらく経った、大正時代以降のことだそうです。

そのきっかけは、資金捻出に苦心していた政府に協力するため、明治23年に三菱社が一帯の土地を高値で買い取り、荒れ地の開発に着手したこと。
大正3年に東京駅ができ、第一次世界大戦の好景気を追い風に、日本を代表するオフィス街へと成長した、という経過らしいです。



千代田区町名由来板「丸の内」には次のような解説がありました。

「江戸時代のこの界隈は、江戸城の内堀と外堀に囲まれていました。丸の内とは、堀で囲まれた内側という意味合いをもった名で、大名屋敷が立ち並んでいました。
 明治維新後、大名屋敷が取り払われてから、周囲は一気にさびれていきます。屋敷跡が陸軍の練兵場などの軍用施設になり、街としての新しい開発が行われなかったためです。
(中略)
 この丸の内一帯が大きく変貌を遂げたのは明治二十三年(1890)、陸軍が一帯を三菱社に払い下げてからです。以降、三菱は大規模な開発にのりだし、地域内の道路整備を行ったうえで、次々と洋風の建築物を建てました。
(中略)
さらに大正三年(1914)には東京駅も完成。第一次世界大戦による空前の好景気が追い風となり、丸の内は一気に日本を代表するオフィス街へと成長しました。
(後略)」


それでは、なぜ陸軍は三菱社にこの土地を払い下げたのか。。。
三菱グループのHPでは次のように説明しています。

「(岩崎)久彌が米国留学を終えて三菱社の副社長になる前年、彌之助は丸の内の兵営跡地など10万余坪を陸軍省から購入した。1890(明治23)年のことである。この土地払い下げは、財源に苦しむ政府が、麻布に新兵舎を建設するための費用を捻出しようとしたもので、政府の希望価格は相場の数倍だった。当然買い手がつかない。困り果てた松方正義蔵相が自ら彌之助を訪ねてきて、政府を救うと思って買い取るよう懇請した。
国家に尽くすことは三菱の社是である。彌之助は苦慮した末に、高値購入を決断した。契約名義は「岩崎久彌総理代人岩崎彌之助」。(後に商法が整備されてから三菱合資会社が買い取った)。代金は128万円。当時の東京市の予算の3倍というから大変な買い物だった。
(中略)
東海道線はまだ新橋まで、中央線は御茶ノ水までで、丸の内はまことに不便な地域だった。唯一、日比谷・大手町間に路面電車が走っていた。
(中略)
東京駅が完成し丸の内が交通の要所になったのは、ずっと後の大正3年である。
(中略)
ロンドンを彷彿とさせる街並みはやがて「一丁倫敦(いっちょうロンドン)」と呼ばれるようになった。
(中略)
煉瓦造りではない現在のようなアメリカ型のビルは、大正7年の東京海上ビルが嚆矢(こうし)である。丸ビルは同12年だった。
(後略)」

「丸の内」は、そこにオフィスを構える企業にとっても、そこで働く人たちにとっても、おそらく大きなステータス。
長年にわたって万人にそう思わせる圧倒的なビジネス街の基礎を築いた岩崎家の財力と、その姿を常に新しく維持し続けている三菱地所の想像力と創造力に、改めて感服しました。





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Last updated  March 14, 2024 06:22:13 PM
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