マルコス亡命 25日の日記
クロニクル マルコス亡命1986(昭和61)年2月25日31年前のフィリピン革命の話です。 コラソン・アキノ氏を首班とする臨時政府が成立した翌25日、ピープルズ・パワーの大波は、遂に大統領官邸のあるマラカニアン宮殿に及びました。 この日午前、NHKのカメラが宮殿に入り、死に体と化したマルコス大統領のインタビューを放送しようとしていた瞬間にも、事態は急を告げ、カメラが回しっぱなしになっている中へ、マルコス派の将軍がやってきて、大統領に武力鎮圧命令を出すよう説得に努める様子と、抵抗をすっかり諦めたらしいマルコス大統領が、その説得に応じようとしない姿が世界に放映さました。 11時頃、突然映像が途切れ、どうやらこの瞬間に革命派がテレビ局と官邸を征圧したらしい事が,テレビ画面に釘付けになっていた我々にも、生々しく理解できたことが、強烈な印象として、いまだに脳裏に焼きついています。 結局マルコス氏は米国に亡命、ピープルズ・パワーは見事に勝利したのです。以下、簡単にフィリピン革命の流れを記しておきます。フィリピンでは、この年2月14日に大統領選挙が行われ、国会での集計の結果、不利とされたマルコス大統領の当選が発表されました。この発表に対し、国民各層から不信の声があがり、大幅な不正操作が行われたことが予測されるとの疑惑が次々と指摘されました。 こうして、国民の不満が大きくなる中、22日エンリレ国防相とラモス司令官らが、マルコス大統領の辞任を要求して兵営に立て篭もり、市民がこれに呼応して、大統領官邸はデモの人波に十重二十重に取り囲まれたのです。 この現象はピープルズ・パワーと名付けられ、市民の声がフィリピンの政治変革を促したのです。ここにコラソン・アキノ候補(実際は選挙で多数票を獲得していたことは、後の調査で明らかとなります)は、この日の前日24日に、エンリレ氏やラモス氏と会談して協力を確認、臨時政府を発足させたのです。