本日は囲碁例会の日。 お天気もよし。久し振りにMTBで銀輪散歩を兼ねて梅田まで走って来ました。今日の往路は、いつもの中央大通りではなく、国道308号線から千日前通りに入るコースを走りました。
比賣許曾神社、産湯稲荷神社、高津宮跡碑、越中井跡、難波宮跡経由、大阪城公園を掠めて天満橋からはいつものコースに入って国道1号線から梅新交差点、桜橋交差点を過ぎ、出入橋で右折、新梅田シティまでというコースです。
(比賣許曾神社)
比賣許曾神社は、千日前通りと市道上新庄生野線が交差する玉津3丁目交差点の北側にある。祭神は下照比賣命である。
日本書紀に、崇神天皇の時代に額に角を生やしたツヌガアラシト(都怒我阿羅斯等)という人が朝鮮から来日し敦賀(気比の浦)に上陸した、という話が出て来るが、彼が朝鮮(伽耶)に居た頃、白い石を得た処、美しい少女に化けた。さっそく契りを結ぼうとしたが、少女は逃げ出す。彼は追いかける。少女は海を渡り、難波まで逃げて来て、この比賣許曾神社の祭神となったというのである。また、一説では豊の国に辿り着き、国東半島の比賣許曾神社の祭神になったとも。
ツヌガアラシトはアメノヒボコ(天日槍)と同一人物と解されている。古事記の天日槍来日説話はツヌガアラシトのそれと瓜ふたつだからである。
また、敦賀はもとはツヌガ(角鹿)であったようだが、その名はツヌガアラシトに由来すると日本書紀は言っている。
(同上)
神社の紋所は榊の花である(下写真参照)。
(同上)
(同上)
千日前通りを更に西へ、小橋公園(真田山公園の南西約300m)の北隣に産湯稲荷神社という変った名の神社がある。
境内には比賣許曾神社御旅所の碑があるから、同神社の末社になるのだろうか。祭神はと見ると、宇賀魂命、下照比賣命、大小橋命とあり、やはりここもシタテルヒメノミコトである。
産湯、という変った名は、大小橋命(オホオバセノミコト:アメノコヤネノミコトの13世の孫)が産湯を使った「玉ノ井」の傍に当神社があったからとのこと。
(産湯稲荷神社)
(同上)
(玉ノ井)
(比賣許曾神社御旅所碑) (桃山跡碑)
(高津宮趾碑) (越中井・細川ガラシャ夫人歌碑)
高津宮趾碑は大阪府立高津高校の正門を入った左側にある。
高津高校の前の道を北に行くと越中井でガラシャ夫人の歌碑がある。
散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ
(難波宮跡)
(同上)
あちらこちらと道草をし過ぎましたので、昼食場所と決めている喫茶店アポロカフェには、いつもは11時40~50分には到着しているのに、今日は12時35分になってしまっていました。
ということで、昼食・珈琲の後、友人から入った携帯メールに返信していると午後1時20分を回ってしまっていたので、花野の散策はせず、駐輪場にMTBを停めると直ぐに会場の梅田スカイビルの21階に上がりました。
既に、竹◎氏、福◎氏、青◎氏、村◎氏、平◎氏、荒◎氏が来て居られ、対局が始まっていました。小生は暫く観戦。対局を終わられた福◎氏と対戦。終盤までほぼ互角でしたが、うっかりミスで黒石6子が取り込まれてしまい、惜敗。次に荒◎氏と対局。これも下辺に黒が結構な地を取り、割り込んだ白も奮戦空しく討ち死に、敗れました。2連敗。最後に青◎氏と対局。これは前半からかなり際どい闘いとなりましたが、凌ぎがうまく行き、優勢に展開、終盤に右下隅の白模様に、乾坤一擲の黒石の打ち込みもうまくさばいて殺すことができ勝利。1勝2敗と、何とか3連敗は免れました(笑)。
帰途についたのは5時。帰宅は6時25分。途中からすっかり暗くなってしまっていました。下の写真は帰途、大川(旧淀川)に架かる天満橋を渡っている時に撮った夕景です。帰途はいつもの通り、石切(水走交差点)まで中央大通りを走りました。
(天満橋上から大川、OBP<大阪ビジネスパーク>のビル群を望む。)