「お墓に配達された御礼状」
福岡県の川辺さんと言う方が、数年前の新聞に投稿されていた記事です。
自分たち夫婦が結婚して20周年を迎えた。
20年を無事に迎えることが出来たのは、結婚式に出て下さった人たちが支えてくれておかげだと...20年前の結婚式に出席して下さった方たちに、お礼の手紙を書かれたそうです。
書いてる最中に、ご主人が奥さんに聞かれたそうです。「この手紙を出す人の中で、一番お世話になって人は誰だと思うか?」と奥さんは「あなたのご両親でしょうね」とおっしゃったそうです。ところが亡くなったご両親ですから、どこにおられるかと言うと、福岡市内の市営平尾霊園に眠っておられるのです。
それでも手紙を書こうと言って、御礼状を書いて、宛名は福岡市平尾霊園川辺家××××と言う戒名だけで、ハガキを出されたそうです。 戻ってくるハガキだったのですが、戻ってこなかったのです。
奥さんは娘さんを連れてお盆にお墓参りに行かれたら、風で飛ばないように石がおかれ、濡れてもいいようにビニールに包まれたハガキが、このお墓の前にきちんと配達されていたそうです。
それを見て驚いた奥さんは、霊園の事務所に行って聞いたそうです。その事務所の方は、郵便配達の方が来られ、このハガキを届けたいので、場所を教えて欲しいと言って、配達して帰られたそうです。
このことを知り、川辺さんは新聞に、「私は一人の市民として、こんな優しい人たちが影で支えてくれている、福岡という町が大好きになりました。」と書いたそうです。
この時の郵便配達の人も、決して褒められたいとか、認められたいとか、お礼を貰いたいとか損得ではないから、人の心を動かすような「であい」になったのだと思います。
人間と言うのは、いい人に出会いたい、いいことにめぐりあいたいと思う人はたくさんおられるが、じゃあ自分が他の人にいいことをしてあげているか、自分が人としていい人で、であっているかということが、もっと大事なのです。

1月の入院中に後輩からもらっていたCDを聞いていました。
知識の勉強は積んではいても、これを生かす「心の勉強」は置き去りにされてはいないでしょうか? かけがえのない自分を発見することこそ、自分を育てること。自分が好きになってこそ、相手を理解することができ、好きになることができます。 日常のささやかな出来事のなかに大きな価値を見つけることで、心のゆたかさや出会いの素晴らしさを感じてください。現代人の多くの人は、人から評価されたときや、親切にされた時に、いい事があったと感じています。常に受身ではなくて、自らが人にしてあげたときに、いい事があることに気づいて頂きのです。
下記からは、、このCDの中で紹介されていたお話しです。
勇気ある殉職、鬼塚車掌
長崎県の時津町に、打坂(うちざか)という急勾配の坂があります。そのバス停のそばに建てられている記念碑とお地蔵さんの前では、毎年慰霊の行事が執り行われています。昭和24年のことです。地元長崎自動車のバスが乗客を乗せて、この坂を登っていました。坂の半ばに差しかかったとき、突然エンジンが故障し、バスは止まってしまいました。運転手はすぐにブレーキを踏んでエンジンを掛け直そうとしましたが、ブレーキが利かない。補助ブレーキも前進ギアも入りません。三重のトラブルが重なって、バスはズルズルと後退し始めたのです。
そのバスには、鬼塚道男さんという21歳の若い車掌が乗っていました。
運転手は彼に大声で、「鬼塚、すぐ飛び降りろ。棒でも石でも何でもいい、車止めに放り込んでくれ!」と指示しました。鬼塚さんはすぐに外へ飛び出し、目につくものを車輪に向かって片っ端から投げ込みました。しかしバスは止まりません。乗車のほとんどは、原爆症の治療に通うお年寄りと子どもたちで、脱出はとても不可能です。その間にもバスのスピードは見る見る上がっていきます。坂の下は崖でした。ガードレールもなく、落ちればバスは大破します。崖まであと10m、5m......。全員が観念したところで、バスは奇跡的に止まりました。
我に返った運転手は、鬼塚さんがいないことに気づきます。まだ車止めになるものを探しているのかと思い、乗客と一緒に探し始めます。ふと、バスの後のほうを見て思わず息をのみました。そこには何と、後車輪に身を投げ、自ら車止めになっている鬼塚さんの無惨な姿があったのです。内臓破裂ですでに息を引き取っていました。乗客は鬼塚さんを戸板で運びながら、「この方は仏さんか菩薩さんの生まれ変わりだ」と口々に言い、涙に暮れました。
貧しい時代で何もしてあげることができず、また、鬼塚さんの死は、一部の人にしか語り伝えられなかったため、次第にその出来事は忘れ去れれようとしていました。24年後、乗客の証言にもとづいて、その事件が小さな新聞記事になりました。それをたまたま目にした長崎自動車の社長は、大変なショックを受けました。「こんな立派な社員がいたことを、われわれ役員が忘れてはいけない」
そう考えた社長は、その日のうちに役員会を招集し、会社で打坂のそばに記念碑とお地蔵さんを建てて供養することを決めました。鬼塚さんの供養祭は、いまでも続いています。
モンロビア行きの列車
戦後間もない頃、日本人の女子留学生が一人、アメリカのニューヨークに留学した。戦争直後の、日本が負けたばかりの頃なので、人種差別やいじめにもあった。そして、とうとう栄養失調になってしまい、体にも異変を感じ、病院に行ったところ、重傷の肺結核だと言われた。戦後まもないころ、肺結核は死の病と言われていました。
思い余って医者に、どうしたらいいか聞いたところ、「モンロビアに行きなさい。そこには素晴らしい設備を持ったサナトリウム(療養所)があるから」と言われたようです。
飛行機がまだ発達していない時代、ロサンゼルス近郊のモンロビアは、ニューヨークから特急列車で5日間もかかる距離でした。当時、汽車賃さえない彼女は、死ぬよりはましだと、恥ずかしい思いをして、知人や留学生仲間に頼み込み、カンパしてもらって、列車のお金を集めました。しかし、食料までは手が回らず、3日分を集めるのがやっとだったそうです。治療費は、日本にいる両親が、家や田畑を売り払ってもなんとかするから、という言葉を証明書代わりに、列車に乗られました。
列車では、発熱と嘔吐が続き、満足に食事もできなかったが、それでも、とうとう3日目には、食料がつきてしまいます。そして、なけなしの最後に残ったお金を出し、車掌にジュースを頼まれました。ジュースを持ってきた車掌は、彼女の顔をのぞきこみ、「あなたは重病ですね」と言った。彼女は、「結核となってしまい、モンロビアまで行く途中ですが、そこまで行けば、もしかしたら助かるかもしれない」、ということを、正直に話をされました。車掌は、「ジュースを飲んで元気になりなさい。きっと助かる」とやさしい言葉をかけてくれたそうです。
翌日の朝、車掌が、「これは私からのプレゼントだ。飲んで食べて、早く元気になりなさい」と言って、ジュースとサンドイッチを持ってきてくれた。
4日目の夕方、突然車内に放送が流れた。「乗客の皆さま、この列車には日本人の女子留学生が乗っています。彼女は重病です。ワシントンの鉄道省に電報を打ち、会議してもらった結果、この列車をモンロビアで臨時停車させなさいという指令がきました。朝一番に止まるのは、終着駅のロサンゼルスではありません」これは、現在で言えば新幹線を臨時停車させるくらい大変なことです。
次の日の夜明け前に、モンロビアに臨時停車し、他の乗客に気づかれないように静かに駅に降りたところ、そこには車椅子を持った看護婦さん達が数人待機していてくれています。車椅子に乗せてもらい行こうとしたら、なぜか列車がざわざわしているので、振り返ってみてびっくりした。一等、二等はもとより、全ての列車の窓と言う窓が開き、アメリカ人の乗客が身を乗り出して口々に何か言っていた。
最初は、日本人である自分に何か嫌なことを言っているのかと思ったが、そうではなかった。名刺や、住所や電話番号を書いた紙切れなどに、ドル紙幣をはさんだものが、まるで紙吹雪のように、投げられたそうです。「死んではいけない。きっと助かるから、安心しなさい」 「人の声が聞きたくなったら、私のところに電話をかけてきなさい」 「手紙を書きなさい。寂しかったら、いつでもいいよ」と口々に声をかけてくれました。彼女は、4.5メートル先に停(と)まっているはずの列車が涙で見えなかったといいます。
結局、3年間入院したが、その間、毎週毎週、見知らぬアメリカ人が見舞いに来てくれたが、これも列車の乗客だった。そして、3年間の膨大な手術費と治療費を払って出ようとしたら、
乗客の中の一人のお金持ちがすべて匿名でお金を払った後だった、ということです。
11月7日から入院生活をしていました。病名は腎臓結石+水腎症(膿腎症)です。前々から結石があることは知っていたのですが、痛みは我慢できる範囲でしたので、病院での治療をせずに放置していましたのですが、この期間が長すぎたために、大きくて壊れにくい結石を育てることになってしまいました。
実は今年の9月になり血液検査をする機会があったのですが、そこで癌の擬陽性と言われていたのです。腎臓にある結石と腎臓の接点に癌のリスクが高いとの診断でした。

そのときのCTの画像です↑。腎臓の結石は3センチ以上のものが一つ。1センチ前後のものが3~4個あるといいうものでした。
治療はまず手術を行い、のこった小さなものを体外衝撃波で治療を行って、2週間で退院の予定で治療がはじまりました。

11月8日にここで第一回目の手術を受けました。
結果は手術の途中で予想以上の出血が起こり、4割り程度の切除で終了してしまいました。 その後に腎臓に残った結石の一部が尿管に挟まり、この結石が大きく治療期間を長引かせる原因となってしまいます。ただこの次点で癌の疑いは、ない事がわかりホッとした気分にはさせてもらえました。癌の疑いがはれない日々は、本当に辛いものでした。
それから毎日何本もの点滴がはじまりました。

色々な管につながれた生活でした。

毎日の薬。

12月に入り、たまった仕事をしたくて、カテーテルを挿入したまま退院し、通院での治療に切り替えました。通院での治療になっても、いっこうに状態は改善しないまま、日にちだけが過ぎて行きました。12月の後半になると、カテーテル挿入が原因だと思われる感性症をおこすようになりました。12月20日には39度以上の高熱となり再入院。退院後に治療を再開しましたが、ここでも状態はかわらないままでした。12月末にドクターから衝撃波の治療では、改善が見込めないために、再手術をしたいと言われ、年明けにうけることにしました。
年末年始は帰省もせずに自宅で安静にして過ごしていましたが、年が明けると、再び高熱がでるようになり、通院日の7日に血液検査。炎症反応は高く、そのまま強制入院となりました。炎症がおさまり次第、再手術にはいることになりました。
11日になりCRPの数値が低くなってきたため、手術をしてもらえることになりました。この手術では腎盂に入り込んでいる結石以外は、取ることが出来きました。予定以上に治療がすすんだのは、このときが初めてでした。ようやく? 嬉しいような、信じられないような気持にさせてもらえました。その後は順調に改善して行きました。
1月20日には、カーテーテルを抜くことが出来ました。じつに75日間留置されたままのワイヤーがとれ、すっきりするものと思いましたが、入れるときよりは少ないものの、抜くときもかなりの痛みと、その後の血尿がまっていました。
今回は1日で血尿が治まってくれましたので、あと少し腎臓に砂状になった結石は残っていますが、退院許可が出て、自宅に戻りました。
第一回目の入院 11月7日~12月3日 第一回目の手術+衝撃波
第二回目の入院 12月20日~21日 急性腎盂炎
第三回目の入院 1月7日~21日 急性腎盂炎+第二回目の手術+衝撃波
総計41泊・カテーテル留置期間75日。体外衝撃波手術17回。長い間の痛み・強い残尿感・酷い排尿痛・治療が進まないあせり・入院患者通しのふれあい・癌患者さんの苦痛・不安 ・高熱・倦怠感 ・病院に勤務されている方々苦労・実に色々なことを体験させてもらえた76日間となりました。どれも仕事では毎月の数字に追われて、みる事が出来なかった事ばかりです。この体験は私にとってかけがえのないものになったと感じています。御迷惑をおかけしたお得意先、会社、友人達、そして家族に感謝です。
11月の休日で自由に使えるのは、3日だけの予定です。朝から子供たちは友達と近所のバザーに行ってしまいました。
せっかくの休みだから、何かしたくて・・・・・ 昼過ぎから、一人で釣りに行くことにしました。はじめはサビキをやってたのですが、周りの誰も連れていないようで、その仕掛けのまま底まで落として、ハゼを釣って遊んでました。
夕方になってサヨリを釣っている人に当たりがきだしました。残念ながらサヨリの針を持ってないかったなって、思いながら帰りの準備をしていた時。バックの下の方から、サヨリ用の仕掛けが出てきました。おっラッキー。さっそくサヨリ釣りを開始。あまり時間がなかったけど取りあえず釣れました。

少しだけお持ち帰りする事ができました。
限定品に欲しいものがなくて、こちらを2個お買い上げ

夜釣りでキャンパーをアピールできそうです(笑)
お得意先から頂きました。

とっても大きな立派な栗です。秋って感じです。
大変、美味しく食べさせて戴きました。
日曜日は夕方から恒例になった釣りに行きました。いつもの草津港は人がたくさんで釣るところがなく、隣の廿日市の港に行きました。この日は鰯がたくさんいて、餌なしのサビキで入れ食い状態。実は鰯を食べた記憶がなくて、たいして美味くないかもって馬鹿にしてました。いざ食べてみると、めっちゃめっちゃ美味い。驚きました

今週は島根県・1泊での弾丸出張でした。
宍道湖近くのお得意先から出てきたときに丁度夕焼け。

久しぶりに宍道湖に沈む夕日を見ることができました。
少しも靄がかかってましたが、それでも充分綺麗です。


軽く気持の充電ができた気がしました。
岩倉オートキャンプ場にディで行ってきました。

大勢の人でレクタを張る場所を確保できずに、
久々のリップタープの登場です(笑)

昨日は魚尽くしだったので、この日は焼肉です。
こちらも久々の登場の鋳物こんろ。

炭火で焼いたお肉を食べながら、ゆっくりした時間を過ごしました。
連休にキャンプに行くつもりでしたが、長男に熱があり中止にしました。
午後になって熱が下がってきたので、子供たちは乗り気ではなかったのですが、どこにも行かないことに我慢ができず、無理矢理に今週も釣りに行くことにしました。 いくまでは渋っていた子供達も、いざ釣れ始めると笑顔になって夢中で釣り続け、一時間ちょっとで、こんなに釣ちゃいました。

そろそろ帰りの準備を始めようとしたときに、私の竿に大物がヒット。強い引きでリールが巻けないので、竿を地面に置いて手で糸を手繰り寄せました。 なんとサビキでチヌが釣れました
周りで釣りをしていた人たちも、驚いて集まってこられたほどです

夕食はお魚尽くしです。

から揚げと

チヌは刺身で戴きました。どちらも、とっても美味しかったです