町田氏はこの表現について、「自然の姿が数多く残っているということを言いたいのだろう」としながらも、「ただ「色濃い」は、ある傾向が強くみられるという意味を表す」し、「ある傾向が見られるためには、それが常に変化する可能性を持っていなければならない」として、「人間の感情」を例に挙げた後、「「自然」は、そのままであれば特に変化をしないものだから「色濃い」とは結びつかない」と主張し、「自然を「豊かに」残していると言えばよい」と結論する。
「自然」について、「それが常に変化する可能性を持って」いないというのは、全くの誤謬である。町田氏は進化論や地球の生成発展過程を否定するつもりだろうか。
何よりも、「それが常に変化する可能性を持って」いるかどうかは、それを捉える人間の認識次第であり、客観的にどうかは本来無関係である。逆に言えば、町田氏は「自然」を固定したもの、変化しないものとして、形而上学的に捉えているのである。だからこうした誤りを犯すのである。これまでの町田氏の見解からして、こうした誤謬を新聞紙上に掲載することはやむを得ないというより、論理的強制である。
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最終更新日
2014年03月20日 12時48分58秒
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