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ゆきよきの言語学・夏目漱石・日本史

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2016年06月24日
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カテゴリ:学一般
(2)「広島演説」は未来が「選択」できるものであることを強調した

 前回は、オバマ米大統領が現職米大統領として初めて、被爆地広島を訪れ、「広島演説」を行ったことに関して、核廃絶へ向けた大きな一歩であったという評価がある半面、原爆投下に対する謝罪がなかったことに対する厳しい意見などもあることを見た。その上で、我が国日本が将来に向けた主体的な国家建設をしていくために、この「広島演説」をどのように捉えるべきかを問うことが本稿の目的であると述べた。

 さて今回から、いよいよ具体的に「広島演説」の中身を見ていくこととしたい。

 先ず注目したいのは、「広島演説」の締めくくりにあたる以下の部分である。

The world was forever changed here, but today the children of this city will go through their day in peace. What a precious thing that is. It is worth protecting and then extending to every child.
That is a future we can choose, a future in which Hiroshima and Nagasaki are known not as the dawn of atomic warfare, but as the start of our own moral awakening.
 世界はここで永遠に変わってしまったが、今日、この街の子供たちは平和の内に暮らしている。なんと貴重なことか。それは守る価値があり、そして全ての子供たちに広げる価値があることだ。
 それは私たちが選択することのできる未来だ。広島と長崎が核戦争の夜明けとしてではなく、私たちの道徳的な目覚めの始まりとして知られる未来なのだ。


 ここでオバマ大統領は、世界中の全ての子供たちが平和に暮らす未来を思い描きながら、それは我々の「選択」によって実現可能なのだと宣言している。しかも、世界平和が訪れた未来の社会においては、広島と長崎に原爆が投下されたことこそが、人類が核兵器の非人道性を痛感し、人類が核廃絶という道徳的な道に目覚めるまさに始まりだったのだといえるように、そういう「選択」を我々は行っていかなければならないのだ、逆に我々が「選択」を誤れば、核戦争で世界が滅亡の危機に立つような未来も招来しかねないのだ、という「選択」肢を提示することで、人類の未来のあるべき姿を強調しているのである。

 このように、オバマ大統領は、我々人類の「選択」如何によって、戦争のない平和な世界が実現できるのか、核戦争によって世界が滅んでしまうのかが決まってしまうのだということを前面に押し出すことで、子供たちのためには世界平和が実現している未来こそ「選択」すべき世界の将来像であることを、被爆地広島の地で高らかに宣言して、「広島演説」を終えているのである。

 では、こうした「選択」を行う人類とはどのような存在なのであろうか。オバマ大統領はこのことに関して、” We're not bound by genetic code to repeat the mistakes of the past. We can learn. We can choose”(私たちは過去の過ちを繰り返すよう、遺伝子によって縛られているわけではない。私たちは学ぶことができる。私たちは選択することができる)という独特の表現で説明している。これはつまり、「選択」を行う主体たる人類は、他の動物とは違って、遺伝子によって予め行動が規定されているような存在ではなくて、自らの意志で文化遺産を学び、自らの意志で将来を「選択」することができる能力を有する存在であるということである。端的にいえば、「新しい未来を発見するために過去から学ぶ」(三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』p.267)存在だということになるだろう。オバマ大統領はこのように、「選択」することができるのは、人間特有の能力であることを強調するとともに、人間だからこそ正しい「選択」をすることが重要になってくると主張しているのである。

 さらに注目すべきは、この「選択」は、一般的な人間の個別的な判断ということではなくて、国の指導者が行うべき国家レベルでの「選択」を意味しているということである。オバマ大統領は「広島演説」の中で、” the choices made by nations”、あるいは” the choices made by leaders”という表現で、国家の「選択」、国の指導者の「選択」の重要性を指摘しているのである。

 オバマ大統領は以上のように、国家の指導者が真摯に過去から学び、その学びの上で将来の国家像を「選択」することで初めて、全ての子供たちが平和に暮らせる世界を創ることができるのであって、それが米国の大統領たる自らの使命であることを全世界に向かって発信しているのである。こうしたメッセージを発信することで、各国首脳の「選択」という問題を提起したこと自体は、肯定的に捉えられることといえよう。

 とはいえ、この「広島演説」において用いられた「選択」というキーワードを全て、我々日本人が肯定的に受け止めるべきかというとそうではないのである。

And since that fateful day we have made choices that give us hope. The United States and Japan forged not only an alliance, but a friendship that has won far more for our people that we can ever claim through war.
 そしてあの運命の日以来、私たちは希望をもたらす選択をしてきた。米国と日本とは、同盟関係を築くだけではなく、戦争を通じて得られるよりもはるかに多くのものを国民にもたらす友情をも築いてきた。


 この部分は、日米両国は第二次世界大戦で対立を深め、遂には世界初の原爆投下という悲劇にまで至ってしまったにもかかわらず、戦後は日米同盟を結び、互いに協力しながら平和と経済発展をともに享受してきたということを述べていて、表面的に受け止めれば、特に問題ないように思われるかもしれない。しかし、もしここで述べられている「選択」の主体が米国と日本とをともに指すのであれば、それは欺瞞といわざるを得ない。戦後日本は、実質的な米軍の統治下にあり、国民レベルでは自らで未来のあり方を「選択」できるような情況ではなかったことは明らかである。さらに、サンフランシスコ講和条約締結後においても、戦力を持たない(戦力不保持を強要された)日本を守るという美名のもと、アメリカの国家戦略により駐留軍がそのまま在日米軍として日本に留まり、数々の軍人、軍属による犯罪を被りながらもその犯人をまともに裁くこともできず、首都にまで治外法権を認める米軍基地が70年以上にわたって存在し続ける、そんな日本に(一部の支配層が保身のために嬉々として米国に従属する「選択」を行ったことを除けば)主体的な「選択」の余地などありはしなかったのである。いわゆる「軍隊」を持たない日本は、首都も含めた全国各地に基地を持ち、いざとなれば日本を軍事的に制圧することなど他愛もない米国に逆らうことはできなかったからである。端的にいえば、ここでいう「選択」とはあくまでも米国の「選択」であって、それをあたかも日米共同の「選択」であったかの如くに論じることは、米国による戦後の日本政策を米国側から一方的に正当化しているものだといわざるを得ない。米国の特殊な利益を日米共同の利益に見せかける欺瞞だといわざるを得ないのである。

 なおここで、オバマ大統領が以前盛んに用いていた”change”という言葉と、ここで取り上げた”choice”という言葉とを比較してみると、何としてもアメリカを、世界を変えてやるのだという大きな展望を示していたオバマ大統領が、残りの任期が8カ月となる中で、当初可能性に過ぎなかった(”change”という抽象的な目標しか提示できなかった)ものを現実的なものとして提示する(”choice”が可能であることは選択肢を提示できているということであるから)ことができるまでに大統領の仕事を進めてきたのだという自負が現れていると解釈できる一方で、大きな展望を示す余地がなくなり、ありきたりな選択肢を提示するしかなくなったのだと否定的に評価することもできよう。トランプ共和党次期大統領候補を意識して、トランプへの「変革」をイメージさせる文言ではなくて、トランプでいいのかという「選択」を迫る文言を選んだという側面もなきにしもあらずと思われる。





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最終更新日  2016年06月24日 11時13分20秒
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ガラスの玉は、本物の真珠をきどるとき、はじめてニセモノとなる。

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