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ゆきよきの言語学・夏目漱石・日本史

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2016年10月06日
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カテゴリ:学び方・振り返り
(3)言語学の学び

 第2に、言語学関連の学びについて、三浦つとむ『認識と言語の理論』、中島文雄『日本語の構造――英語との対比』の学びを振り返っておく。

 まず、『認識と言語の理論』第3部についてである。これは当初、非常に軽く見ていた(というのは、第1部第2部を補完する論文の寄せ集めに過ぎないと思っていたから)のだが、とても重要なことが諸々に説かれていることが分かった。「言語の本質は、認識が一般的であるだけでなくそれを一般的に表現するところにある」(p.51)とあるのは、言語が種類としての表現であって、言語表現と非言語表現との二重性として言語を把握する必要があることを説いているし、言語の意味と意義が乖離し得ることも示唆していると思う。p.63にはアリストテレスの「能動的理性」、つまり「永遠で肉体から分離しうるもの、神の理性と同一なもの」という、2つのヌースの内の1つが紹介され、これが観念的な自己だと説いておられる部分なども、自らの論理で問いかけていく姿勢がよく感じられて素晴らしいと思った。「雨がひどく降った。だが道はさほど悪くない」(p.179)という表現に関して、p.183ではこの文の「だが」について解説されていて興味深かった。この「だが」は現象的には前の文と後ろの文をつないでいるが、認識構造としては、そうではないというのである。「雨がひどく降った。(道が悪くなっているだろうと予想したの)だが道はさほど悪くない」という隠れた認識をしっかりと辿っていく必要があると説かれていて、非常に丁寧な読み取りだと思った。

 もう1つ、『日本語の構造――英語との対比』についてである。この著作は、英語の研究の専門家が日本語の構造を云々するということになっていて、非常に面白かった。とはいっても、この「面白かった」はもちろん、「興味深かった」とか「謎を解いていく上での大きな参考になった」とかいうプラスの意味ではなくて、「どうしてこんな突飛な発想になるのか分からずに、思わず失笑してしまった」という意味での「面白かった」である。具体的にいえば、p.78には、様態を表す副詞(ふらふら/がつがつ/ゆっくり)について、「と」という格助詞をとることができるために名詞とみることができるなどと説いておられたりする。副詞とは何か、名詞とは何かを明らかにせず、統語的な特徴のみでもって品詞を分類する機能主義も甚だしい。p.84には「本来の副詞」なる表現があり、期待して読み進めると、「述語句や述語の修飾語としてのみ用いられる単語」ということだろうということが分かってくる。これも表面的な修飾関係のみに着目する機能主義である。何ら言語の中身を内容として捉えられていない。まだある。p.115には、「象は鼻が長い」という文の「基底文」は「象の鼻が長い」だと述べている。そもそも「基底文」の意味が分からないし(チョムスキーの変形生成文法の用語だろうが)、2つの文章は認識構造がまるで違う。前者は象を取り上げて、その特長を表現したものであるが、後者は象の鼻を取り上げて、その性質を述べたものである。p.122にも「妻がかせいだ金で車を買った」の「基底」には、「私は私の妻がかせいだ金で車を買った」という文があると述べておられるが、こんなものは英語ならこう言うということを前提として、それを無理やり日本語に当てはめているだけのことであって、ハッキリいえば間違っているし、間違っていないとしてもそれがどうしたというレベルのことである。pp.136-137には「父はもう駄目だと思った」という表現を取り上げて、「思った」の主語が私の場合と父の場合と2通りの解釈が可能だから「曖昧だ」とした上で、「どちらの意味であるかは発話の場面できまる」と述べている。ここまで言語を机上で語れるのかと思った。こうした把握では、相手の認識を正しく言語から把握することも、自分の認識を正しく言語で伝えることもできなくなってしまう可能性があるのではないかと危惧する。三浦さんのいうように、「認識についての科学的な理論を持たない」ことの弊害は大きいと感じた。正しくは「表現者の認識できまる」であって、人間の認識を抜きにした言語研究が如何におかしなものになるのか再確認できたという意味で、なかなかの著作であった。





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最終更新日  2016年10月06日 17時07分53秒
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ガラスの玉は、本物の真珠をきどるとき、はじめてニセモノとなる。

政治の分野であろうと学問の分野であろうと、革命的な仕事にたずさわる人たちは道のないところを進んでいく。時にはほこりだらけや泥だらけの野原を横切り、あるいは沼地や密林をとおりぬけていく。あやまった方向へ行きかけて仲間に注意されることもあれば、つまずいて倒れたために傷をこしらえることもあろう。これらは大なり小なり、誰もがさけられないことである。真の革命家はそれをすこしも恐れなかった。われわれも恐れてはならない。ほこりだらけになったり、靴をよごしたり、傷を受けたりすることをいやがる者は、道に志すのをやめるがよい。

孤独を恐れ孤独を拒否してはならない。名誉ある孤独、誇るべき孤独のなかでたたかうとき、そこに訪れてくる味方との間にこそ、もっとも深くもっともかたいむすびつきと協力が生まれるであろう。また、一時の孤独をもおそれず、孤独の苦しみに耐える力を与えてくれるものは、自分のとらえたものが深い真実でありこの真実が万人のために奉仕するという確信であり、さらにこの真実を受けとって自分の正しさを理解し自分の味方になってくれる人間がかならずあらわれるにちがいないという確信である。

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