カテゴリ:学び方・振り返り
(4)一般教養、弁証法、認識論の学び
第3に、一般教養、弁証法、認識論の学びについてである。ここでは、本田克也他『看護のための「いのちの歴史」の物語』第7章~第8章、横光利一『機械』、薄井坦子『科学的な看護実践とは何か(下)』、『学城』第4号の学びについて振り返っていく。 まず、『看護のための「いのちの歴史」の物語』についてである。今回はスカイプ学習会で「第7章 運動形態を担う生命体の構造の発展を知ろう」と「第8章 地球の激変に対応して、両生類段階から哺乳類段階へ」を扱った。今回の学習会では、地球環境の激変に対応すべく、生命がいわば必死に運動形態を創出する流れの中で、実体をも変革していったことが理解できた。カイメン段階でその場での運動形態を持てたからこそ、クラゲ段階の全身的浮遊的運動が可能となっていき、さらには魚類段階での、海流の誕生に対応できる硬質性と柔軟性を獲得できていったのだ、この流れしかなかったのだという必然性の理解こそ、哲学史でも適用できるものである。また、爬虫類と哺乳類との対比において、新しい環境に立ち向かっていって対応しきったという環境への対応の実力の違いが強調されていて、”change of the place, change of the brain”という論理の重要性を再認識できた。こうした発展の過程においては、単に運動形態のみの発展と捉えるのではなく、代謝器官も統括器官も実力をつけていったことをよく見ておく必要がある。こうした生命の流れは、人類の歴史も含めて、自由が拡大していく過程として、ヘーゲル『哲学史』『歴史哲学』と重ねて把握する必要があるということも確認できた。 次に、『機械』に関してである。読書会では、タイトルの意味について、吉本さんのいう「理知だけの人間の絡み合い」とはどういうことか、「機械の歯車の狂い」とあるがこれはどう狂ったということか、という問題についてまずは議論した。理知的ということに関しては、主人公が喧嘩の場面でも感情的にならず、第三者的な立場から人間関係の法則性についていろいろ解釈しようとしていることを確認した。世の中には、いろいろな歯車が存在し、プレートの色合いにしても、複雑に絡み合った歯車がかみ合って出てくるものであるように、社会環境にもいろいろな歯車が存在し絡み合っているということが述べられているのではないかということであった。この人間関係の歯車は、作品中では結局、屋敷の死という形で狂いが表面化するわけだが、どうしてこういう結末になるのかについては、明確には説明されていない。しかし、それが却って作品の味わいとなっているのではないかという意見も出された。その他、4人称小説とは「自意識」つまり「自分を見る自分」という認証で書かれた小説であることを確認したいり、吉本さんのいう「倫理」について、これは要するに職人気質のことを言っているのではないかという議論をしたり、横光が世界レベルを目指して小説を書いていたことは評価できるものの、単純に純文学+大衆小説というものをあるべき小説の姿として追い求めたことは、表面的すぎて、本来であれば自ずからそうした作品の深みが出てくるという精神の構造をこそ問わなければならなかったのだということを話し合ったりした。 3つ目に、『科学的な看護実践とは何か(下)』である。冒頭の部分については、関西例会でも取り上げられて、事実と論理の上り下りが見事に展開されていているという実例として、しっかりと学ばなければならない箇所である。また、全体として、看護の理論がコンパクトに繰り返し繰り返し説かれているため、こうした講演録に学ぶ意義が大きいことも指摘されていた。その他の箇所については、p.49やp.66などで、一生懸命頭を働かせなければならない、一生懸命考え続ければ錆びついた頭でも非常によく働くようになることが指摘されていて、これは自分への励ましだと捉えて努力していかなければならないと思った。p.142からは、人間の主観を切り捨てては本当の学問にはならないこと、取り組みを折に触れて振り返り、その意味を考え直す必要があることが説かれていた。要は主体的に学びの過程を辿って行って、それをまた主体的に振り返り、学びの意義を確認し続けていく必要があるということで、この振り返りを継続していくことの意味を再確認できたと思う。 最後に、『学城』第4号に関してである。これは来年早々にブログ掲載論文として感想をまとめることになっているので、そのために(若干10月に入ってしまったが)とりあえずざっと読んでおいたものである。学問において弁証法の学びが必須であるから、これまでの号においては表紙に「弁証法編」と書かれていたのだが、第4号からはもはや弁証法は常識として、この文言がなくなっているということであった。こうしたことを踏まえて全体を見渡すと、第4号全体を貫くテーマとして、「一般論を掲げての学びの重要性」ということが説かれているのではないかと感じた。国家論においても、医学においても、障害児教育においても、住宅論においても、悟りの問題を考えるにしても、農学を問うにしても、全てまずは一般論を措定し、それを掲げて対象とするすべての事実に問いかけていく必要があるという学問への道が全編にわたって説かれているという印象を受けたのである。こうした観点で読み込んでいって、どのようなことを学び取ったのかを論じていくこととしたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2016年10月06日 17時08分25秒
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