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ゆきよきの言語学・夏目漱石・日本史

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2016年10月14日
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カテゴリ:言語学
本論
1、三浦は言語学にとって必要な認識論から説き始めた
(3)言語を問う前提として認識を問う

 本稿は、認識を正しく伝える言語を創っていくためには、あるいは言語に表れている認識を正しく把握するためには、認識と言語とのつながりをしっかりと把握する必要があるという問題意識のもと、三浦つとむ『認識と言語の理論』を読み進めていくことで、三浦の言語理論の歴史的意義を明らかにするとともに、科学的な言語学体系を構築する土台を築きあげることを目的として執筆する小論です。

 今回からいよいよ『認識と言語の理論』の中身について見ていくことにしましょう。

 三浦はまず、言語の問題を解明するためには、認識についての理論を説明する必要があるとして、以下のように述べています。

「法律学には法哲学なるものが、言語学には言語哲学なるものがそれぞれくっついてまわっているばかりでなく、法律学者あるいは言語学者も、この問題は法哲学に属するとか言語哲学に属するとか述べて、いわば下駄を預けている状態にある。しかも、それではいけないのだという反省さえ見られないのである。では、この哲学に下駄を預けている問題はどんな問題かというと、それは精神活動に関する問題である。法律は国家の意志という特殊な認識として成立する。言語は話し手や書き手の頭の中にまず訴えようとする思想や感情が成立し、それから音声や文字を創造する活動がはじまるのである。法律学あるいは言語学が、いまだに哲学と名のるものによりかからなければならないのは、認識についての科学的な理論を持たないためであって、この理論を持つことによって真に科学の名に値するものになるであろう。それゆえ、本書はまず、言語学にとって必要な認識論を述べてから、言語についての理論に入っていくことにする。」(p.3)


 ここで三浦は、「精神活動に関する問題」を「哲学」に委ねてしまっている法律学や言語学の現状を憂い、それでは駄目なのだ、認識についての科学的な理論を土台としてこそ、法律学や言語学が真の科学となれるのだ、だからこそまずは認識論から説いていくのだ、と述べているのです。これまでの言語研究史においては、言語の問題を検討するに際して、認識の問題を考察する必要があるということが、長い歴史の中で徐々に把握されてきたのでしたが、ここまで明確に認識論を取り上げることはなかったといっていいでしょう。そういう意味では、三浦の言語理論は言語研究史の最先端に位置づけられるものだといえるでしょう。

 上記のように、言語が表現者の「思想や感情」をもとにして創造されるからこそ、まずは「言語学にとって必要な認識論」を論じなければならない、ということのほかに三浦は、「なぜ・いかにして・言語の意味が変動変遷するのかという問題」(p.5)や「なぜ・いかにして・単語を構成していくのかという問題」(p.6)を解決するためにも、認識論の構築が必須であると述べています。言語の意味の変遷や単語の構成方法というものは、認識のあり方が大きくかかわっているというのです。

 以上のように、言語の理論を展開する前提として認識の理論を検討していくとした上で、三浦は認識とはどういうものか簡単に説明していきます。

「認識は、客観的に存在している現実の世界のありかたを、個々の人間が目・耳その他の感覚器官をとおしてとらえるところにはじまるのである。認識は現実の世界の映像であり模写であって、たとえどのような加工が行われたとしてもその本質を失うことはないし、脳のはたらきとして個々の人間の頭の中にしか存在しない。」(p.4)


 ここで三浦は、認識とは客観的な現実の世界を感覚器官を通して捉え、脳細胞に描き出した模像が大本であって、私的なものだと説明しています。今、現に見ているものは、個人の認識として形成されるのであって、決して他人と共有されるものではないという認識の私的な側面を説いているのです。しかし一方で三浦は、「人間の認識は社会的なものである」(p.3)とも述べています。これは一体どういうことでしょうか。

 三浦は、「人間は…精神的に相互につくり合っている」(p.4)といいます。これはどういうことかといえば、「他の人間の認識を自己の頭に受けとめたり自己の認識を他の人間に伝えたり」(同上)することによって、「人間の認識が交通関係に入りこむ」(同上)ということです。具体的にいえば、日常的な会話によって、あるいは仕事上のやりとりによって、あるいは学問上の議論によって、人間は他の人間の認識を知り、自分の認識を相手に伝えることによって、互いに認識に影響を与え、互いの認識をつくり合っているということです。「他の人間の認識を自己の頭に受けとめることによって認識がさらに広く深くなる」、「自己の認識は他人的になることによって自己として成長していく」(同上)というわけです。これが認識が社会的であるということの意味であって、個々別々の人間の認識も他の人間の認識によって創られる側面があるということです。そして、こうした精神的な交通を媒介するものこそ、言語を中心とした表現であると三浦は説くのです。

 認識について、個々の人間の頭の中にしか存在しないにもかかわらず社会的な性質も受け取ると述べた上で、三浦は「認識の科学も、科学者の手によって一つの個別科学として体系化されなければならないのであり、認識の具体的なありかたととりくんで研究しなければならない」(p.6)ことを強調します。こうした考え方の背景には、「科学は哲学者が机に向ってあれこれと空想を展開しながら体系化していくものではなく、あくまでも対象ととりくんで対象からつかみとりたぐっていくものである」(同上)という三浦の科学観があり、「この問題は法哲学に属するとか言語哲学に属するとか述べて」いる現在のいわゆる法律学者や言語学者への批判があるといえるでしょう。あくまでも現実の問題を自分自身の手で解決するのだという三浦の主体性にも学ぶ必要があるといえるでしょう。





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最終更新日  2016年10月14日 08時52分35秒
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