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ゆきよきの言語学・夏目漱石・日本史

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2016年10月15日
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カテゴリ:言語学
(4)人間の観念的な自己分裂とは何か

 前回から、いよいよ三浦つとむ『認識と言語の理論』の中身に入っていきました。前回はまず、言語を問うためには認識を問う必要があると主張する三浦の論理展開を追っていきました。言語はまず訴えようとする思想や感情が成立し、それから音声や文字が創造されるという形で生まれるものであるために、認識についての科学的な理論が必要だということでした。そこで認識とは何かを簡単に見ていきました。認識とは、あくまでも個々の人間の脳細胞に描かれる客観的な現実世界の模像として成立するものであるが、人間の認識が交通関係に入ることによって、認識は社会的な性質も帯びることになるということでした。そして、認識の科学が個別科学として科学者の手で体系化されなければならないという三浦の科学観も紹介しました。

 さて今回は、三浦が認識の構造についてさらに突っ込んで検討していく内容を見ていくことにしましょう。

 まず三浦は、人間の認識が変化し発展していくことに関して、「なぜ・いかにして・この変化と発展が起るのかを説明しなければならない」(p.16)と述べます。そして、「現実の世界が無限であるのに対して、われわれ個人の認識に限界がある」(同上)という「認識の本質的な矛盾」(同上)こそが原動力となって、認識が変化・発展していくのだと説くのです。具体的には、まず先回も説明したように、他の人間の認識を受け継ぐことで個人の認識の限界を突破するということが述べられます。しかもこのことは、「事実上限りなく継続していく人間の世代の認識を系列化すること」(同上)を通じてヨリ発展していくというのです。つまり、人間は言葉などの表現を介して他人の認識を受け取って認識を変化・発展させていくのですが、このことは同時代の人間間の問題に限られず、世代を超えて継続させられていくのだということです。例えば、人間が獲得した成果を書き言葉として書物などの形態で残しておけば、同世代のみならず、世代を超えた人々の認識に働きかけることができますし、いわゆる伝統とか習慣とかいったものも、家庭での躾や学校教育などによって世代を超えて継承されていくというわけです。

 三浦はこのように、集団における人間の認識の変化・発展の構造を説いた後、「個人の認識の構造」(同上)にも言及しています。つまり、人間の認識は「受動的であり限界づけられていると同時に、能動的に現実に向って問いかけその限界を超えていく」(同上)という性質があるというのです。これはどういうことかといえば、前回も説明したように、「認識は、客観的に存在している現実の世界のありかたを、個々の人間が目・耳その他の感覚器官をとおしてとらえる」(p.4)ものであるという意味で、確かに受動的な反映だといえるのですが、それだけではなくて、「能動的に想像していく」(p.16)という性質も持っていて、このことによって感覚器官で捉えられる限界を超えた認識が可能になっていく、ということです。例えば、縁側の障子から尻尾が現れているのを見て、その陰に猫がいることを予想する場合には、実際には障子によって隠されてしまっている猫の体の大部分を頭の中に描いているということなどが「能動的に想像していく」ということなのです。

 このように、人間の認識には受動的な側面と能動的な側面があることを説いた上で、三浦はさらにこの能動的な側面について詳しく説明していきます。「能動的に現実に向って問いかけその限界を超えていく」とは具体的にどのようなことなのかが説かれていくわけです。

 三浦はここで、「現実的な自己」「観念的な自己」(p.24)という概念を導入します。これがどういうものであるかについて三浦は、自分の家の中で、訪ねてくる友人のために自分の家のありかを教える地図を描く場合の例で説明しています。地図を描くときは、机に向って現実的な位置で目の前の白紙を眺めながら描くのですが、地図としての自分の家は、現実的な感覚器官(目)の位置では捉えられず、観念的に自分の家の上空から自分の家を見下ろすところに自分(の感覚器官(目))を位置づけて描かれるというのです。このときの現実の白紙を眺めている自己が「現実的な自己」であり、上空から自分の家を見下ろしている自己が「観念的な自己」だということです。「現実的な自己から、観念的な自己が分裂して、観念的に空中の一点に自己を位置づけていることになる」(同上)わけです。先の障子に隠れている猫の例でいえば、「現実的な自己」の目では、現実の世界の障子に隠されている猫の本体の部分は見えないわけですが、「観念的な自己」の目では、障子が取り外された観念的な世界を見ていて、猫の本体の部分もしっかりと見えているわけです。

 このように三浦は、人間の認識が感覚器官が捉えられる限界に規定されているという受動的な側面(現実的な自己の側面)と、感覚器官が捉えられる限界を超えて生成される能動的な側面(観念的な自己の側面)とを持つことを説きつつ、人間が観念的に「この限界を超えたりまたもどったりする活動をくりかえしながら生活している」(同上)ことによって、認識が発展していくことを説明しているのです。

 三浦は、「観念的な自己」が持つ目をクリスティの探偵小説の中の表現をとって「頭の中の目」とも呼んでいますが、この「頭の中の目」は「空間的時間的制約をのりこえて真理をとらえる」(p.58)ことができると説明しています。具体的には、「直接見ることのできない原子核の内部やガン細胞の内部」(同上)、「物的証拠の抹消された殺人事件」(同上)、あるいは「自然の法則」(同上)などを、この「頭の中の目」は見抜くことができるというのです。これは「現実的な自己」から分裂した「観念的な自己」は、「現実的な自己」が入りこめないような微細な空間に入りこんだり、「現実的な自己」が戻れないような過去の殺人現場に時間的に移行したり、または「現実的な自己」が捉えられないような超感性的な世界の関係性を捉えたりすることができることを述べたものです。

 以上見てきたように、三浦は「現実の世界が無限であるのに対して、われわれ個人の認識に限界がある」という「認識の本質的な矛盾」が原動力となって、「現実的な自己」から「観念的な自己」が分離することを述べ、この人間の観念的な自己分裂が認識の変化・発展に大きく関わっていることを説いているのです。





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最終更新日  2016年10月16日 19時00分19秒
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