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ゆきよきの言語学・夏目漱石・日本史

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2016年10月16日
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カテゴリ:言語学
(5)規範とは何か

 前回は、三浦が認識の構造について突っ込んで検討している部分を見ていきました。三浦はまず、人間の認識がなぜ・いかにして・変化・発展するのかという問いを立てて、その原動力として、「現実の世界が無限であるのに対して、われわれ個人の認識に限界がある」という「認識の本質的な矛盾」を挙げていることを紹介しました。そして、この矛盾を解決する手段として、人間は世代を超えて他人の認識を受け継いでいくということがあることに触れた後、「個人の認識の構造」を見ていきました。三浦は、人間の認識は「受動的であり限界づけられていると同時に、能動的に現実に向って問いかけその限界を超えていく」という性質があると述べ、「現実的な自己」から分裂した「観念的な自己」が時間空間を超えて移行していき、そこで捉えた成果を引っさげて「現実的な自己」に復帰することで、認識が発展していくのだと説いていたのでした。

 さて今回は、三浦が説く認識の理論において、観念的な自己分裂に並んで重要な規範の問題を見ていくことにしましょう。

 三浦はまず規範について、「心の中から自分自身になされる命令」(p.149)であって、「社会的な関係で規定されながらもさらに社会的な関係を発展させるためにつくり出す、意志の特殊な形態」(同上)であると説明しています。例えば、酒とたばこを楽しんでいる者が自分で酒やたばこを有害だと判断して、ここから「やめよう」という意志をつくり出したとすれば、この「やめよう」という意志が規範だということです。また、恋人同士で「5時に有楽町で会いましょう」という約束をしたとすれば、この約束も規範の一種ということになります。他にも三浦は、契約や法律なども規範の一種だと述べています。

 しかしこのような三浦の説明を見てみると、「約束が規範であるというのは何となく分かるが、契約や法律が規範であるとはどういうことか分からない」、「契約や法律は「心の中から自分自身になされる命令」ではなくて、契約書や六法全書が外部から自分に命令するのではないのか」「契約や法律が「意志の特殊な形態」であるとはどういうことか分からない」などといった反論や疑問があることが想定されます。そこで三浦が規範をどのようなものだと考えているかについて、少し詳しく見ていくことにしましょう。

 三浦はまず、「簡単な規範のありかた」(p.154)を検討していきます。「簡単な規範のありかた」にも「規範の本質が示されている」(同上)からだというのです。そこで取り上げられるのが、先に示した「禁酒禁煙」の例です。初めに示されるのが、医師から「おやめなさい」といわれる場合です。医師からこういわれて、患者自身の自由意志でこの医師の命令を受け入れることになれば、この医師の命令の複製が患者の頭の中で患者の意志として維持されこれに従うことになるというのです。ここでは、命令の複製が患者にとって観念的な「外界」として、つまり観念的に対象化されたかたちをとって、維持されていくということがポイントになります。次に、患者が自分で酒やたばこを「やめよう」と思った場合が取り上げられます。この場合には、「自分でつくり出した「やめよう」という意志を自分から観念的に対象化して、「外界」から「おやめなさい」と命令されているかたちに持ってい」(p.153)き、「この観念的に対象化された意志を維持して、これに対立する「楽しもう」という意志が生れてくるのを押さえつけていく」(同上)というのです。これは先に見た医師から「おやめなさい」といわれて従う場合とまったく同じ構造になっています。このように、「自己の意志が観念的に対象化されたかたちをとり、「外界」の客観的な意志として維持される場合には、ここに規範が成立したのであって、単なる意志と区別する必要がある」(同上)と説明されているのです。

 ここで三浦が述べていることの要点は、規範というものは意志の一形態であって、自分の頭の中にしか存在しないものであること、それにも関わらず対象化されているため、つまり自分とは別の対象の位置に置かれているため、自分独自の意志と対立する可能性があること、この2点です。具体的に考えてみればよく分かるでしょう。例えば、酒やたばこを「やめよう」と決めたにもかかわらず、どうしても誘惑に負けて楽しみたい気持ちを押さえられないこともありますし、恋人と「5時に有楽町で会いましょう」という約束をしたのに、他にもっと楽しい用事ができて恋人との約束をキャンセルしたくなることもあります。このような場合、頭の中で、対象化された意志である規範とその時の自分の独自の意志とがせめぎ合い、葛藤することになるのです。

 以上のような三浦の説明をもとにすれば、「契約や法律が規範であるとはどういうことか」、「契約書や六法全書が外部から自分に命令するのではないのか」「契約や法律が「意志の特殊な形態」であるとはどういうことか」という問題も解けてきます。まず契約についていえば、「契約に際して自分の意志が同時に他人の意志でもあるような、両者に共通の意志を成立させる」(p.156)のであって、これが取も直さず自分たちの行動を規制する規範だということになります。契約書というのは、「後になって共通の意志の存在を否認されることのないように、客観的なかたちを与えて証拠とする」(p.157)ためのものであって、契約書がないから契約が成立しないということはありませんし、契約によって従わなければならないのは、自分たちの頭の中に成立した「共通の意志」、すなわち規範なのです。契約が特殊な人々(契約した者)だけに適用される命令であるのに対して、法律の場合は、「社会全体に適用されるものとして成立する」(p.164)ものである点が特殊性ですが、その他の点については契約と同じ構造になっています。つまり、人間が法律に従うというのは、いちいち六法全書を参照して従うのではなくて、頭の中に複製された社会全体に「共通の意志」に従うのであって、制定されている法律でも本人が知らなければ「共通の意志」を観念的に対象化できないわけで、思いもよらず法を犯してしまうこともあるでしょう。

 三浦は以上のような「目的的につくり出す規範」(p.170)の他に、「自然成長的な規範」(同上)もあるとして、言語規範についても触れています。言語規範は、「表現上の秩序を維持するために、人びとの間の社会的な約束として成立したもの」(p.177)であって、「民族全体の言語表現を規定する」(同上)ものであるとされていますが、詳細は次々回に扱うことにします。





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最終更新日  2016年10月16日 19時00分58秒
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ガラスの玉は、本物の真珠をきどるとき、はじめてニセモノとなる。

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孤独を恐れ孤独を拒否してはならない。名誉ある孤独、誇るべき孤独のなかでたたかうとき、そこに訪れてくる味方との間にこそ、もっとも深くもっともかたいむすびつきと協力が生まれるであろう。また、一時の孤独をもおそれず、孤独の苦しみに耐える力を与えてくれるものは、自分のとらえたものが深い真実でありこの真実が万人のために奉仕するという確信であり、さらにこの真実を受けとって自分の正しさを理解し自分の味方になってくれる人間がかならずあらわれるにちがいないという確信である。

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