カテゴリ:言語学
2、三浦は認識から表現への過程的構造を解明した
(6)表現とは何か 本稿は、言語を本質的に把握するためには、認識と言語とのつながりをしっかりと検討する必要があるという問題意識のもと、三浦つとむ『認識と言語の理論』を読み進め、三浦の言語理論の歴史的意義を明らかにするとともに、科学的な言語学体系の構築の第一歩とすることを目的として執筆する小論です。 前回まで3回にわたって、三浦の認識論を見てきました。言語はまず訴えようとする思想や感情が成立し、それから音声や文字が創造されるという形で生まれるものであるために、認識についての科学的な理論が必要だと考えた三浦は、人間の認識の私的な側面と社会的な側面についてまずは説明したのでした。認識は個人の頭脳にしか描かれないという面で私的な側面を持つものであるが、その認識が交通関係に入ることで、社会性を帯びたものとして発展していくということでした。こうした認識の一般的な性質を押さえた上で、三浦は認識論の2つの大きな柱について説明していきました。1つ目が観念的な自己分裂、2つ目が規範の問題についてでした。まず、観念的な自己分裂とは、現実的な自己が感覚器官の捉えられる限界に規定されているという限界を突破するために、現実的な自己から観念的な自己を分裂させることであり、この観念的な自己が時間的空間的に様々に移行し、そこでの経験を踏まえて現実的な自己に復帰することで、認識を発展させていくことが可能となるということでした。また、規範の問題については、規範とは意志を観念的に対象化したものであって、心の中から自分自身に命令を下すものでした。約束、契約、法律などが規範であって、「表現上の秩序を維持するために、人びとの間の社会的な約束として成立したもの」であって、「民族全体の言語表現を規定する」言語規範も規範の一種だということでした。 さて今回から、いよいよ三浦の言語の理論について見ていきたいと思います。とはいっても、三浦はいきなり言語の問題に入るのではなくて、表現一般をまずは問題にします。 三浦はまず、表現とは「精神の物質的な模像」(p.300)であり、「精神のありかたをそれに対応する物質的なありかたに模写し、それによって他の人間に理解できるよう表面化した」(同上)ものであると規定します。絵画や映画、彫刻などの他にも、「痛みを感じるときにいつでも顔をしかめて見せたり、怒ったときにいつでもこぶしをふりあげたり、嘲るときにいつでも舌を出したり」(p.301)することも表現の1つのあり方だといいます。簡単にいえば、認識という感覚器官で捉えられないものを感覚器官で捉えられる形にしたもの、これが表現だということです。例えば、作者がどのような風景を見ているのかを直接知ることはできません。しかし、それが絵画として、物質的なあり方として表現されれば、その時の作者の頭の中のイメージを捉えることができるのです。また、足の小指をタンスの角にぶつけたような場合、それがどれほどの痛みであるのかについては、周りの人間は直接経験することはできません。しかし、そのぶつけた本人が顔を歪め悶絶することを見れば、それがどれほどの痛みであるのか、ある程度の想像はつきます。物質的なあり方としてはいろいろありますが、とにかく、感覚器官で捉えられない認識を物質的なあり方に写し代えたものが表現だということです。 ここで、三浦が認識は現実の世界の映像であり模写であると述べていたことを思い出していただきたいと思います。認識は現実世界の対象の精神的な模像だということです。このことと表現は認識の物質的な模像だという上記の論理をつなげて考えるとどうなるでしょうか。それは、対象から認識へ、表現へという過程においては、常に像としての反映関係が貫かれているということです。対象は認識に反映し、認識は表現に反映する、ということです。しかし注意が必要なのは、最初の対象と最後の表現が物質的な存在であるのに対して、真ん中の認識は精神的な存在だということです。そして、対象が像ではないのに対して、認識も表現も像としての性質を持っているということです。 このように、表現一般の性質について確認した上で、三浦は形式と内容との統一という問題の考察に移っていきます。三浦は、「まず、像でない場合の形式と内容との統一から考えてみよう」(p.309)といい、現実の世界にある物質的な存在について、「空間的なかたち」(同上)が形式であり、「それらを構成している実質」(同上)が内容であることを指摘します。例えば、1つのリンゴが目の前にあるとすれば、そのリンゴの形式とはその形のことであって、そのリンゴの中身が内容だということになります。そして、「像でない場合」には、「実体が直接に内容とよばれる」(同上)ことに特徴があると述べています。では、認識や表現のような像の場合には、形式と内容との統一はどのようなものになるのでしょうか。これらの場合、「像のかたちを形式とよぶ」(同上)が、「実体が直接に内容とよばれるのではなくて、実体は媒介的に内容を形成する存在」(同上)であると説明しています。具体的にいえば、例えば太陽の光が地上に影を落とす場合、その影の形式とはその影の形のことであるが、その影そのものは何ら実体的ではなくて、原型の側に実体的な存在があるというのです。そしてその影の内容というのは、原型の側にある実体的な存在から媒介されて形成されるというのです。認識の場合でいえば、認識そのものは実体的なものではなくて、対象の側に実体的な存在があり、その対象たる実体自体が認識の内容なのではなくて、その対象たる実体は媒介的に内容を形成する存在だということです。リンゴを見た場合、リンゴの像が形成されますが、この認識の内容は、リンゴという対象たる実体そのものではなくて、リンゴという対象たる実体から媒介的に形成されるのだということです。リンゴを見た後で、そのリンゴを食べてしまったとしても、リンゴの像を維持できますが、もとのリンゴなくしてはリンゴの像は形成されなかったという意味で、認識の内容は「リンゴという対象たる実体から媒介的に形成される」というのです。 以上のことを、言語という表現について考えてみると、言語の内容(意味)は、認識という実体が媒介的に形成するものだということになります。言葉を換えれば、言語の内容(意味)は、認識が言語の形式(音声や文字)と結ぶ関係であるということになります。だから、言語の内容(意味)はどこにあるかといわれれば、それは言語の形式(音声や文字)の中にあるのですが、言語の内容(意味)は感性的に把握できるようなものではない(関係は目には見えない!)ということになります。物質的な存在である音声や文字を分解してみても、言語の内容(意味)がその中から物質的に取り出されるわけではないのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2016年10月17日 09時09分48秒
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