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ゆきよきの言語学・夏目漱石・日本史

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2016年10月18日
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カテゴリ:言語学
(7)言語の表現としての特殊性とは何か

 前回は、表現とは何かという問題についての三浦の見解を見ていきました。三浦は、表現とは「精神の物質的な模像」であり、「精神のありかたをそれに対応する物質的なありかたに模写し、それによって他の人間に理解できるよう表面化した」ものであると規定しているのでした。また、対象から認識へ、表現へという過程において、一貫して像としての反映関係があるのだということでした。三浦はさらに、表現の内容というものは、認識が表現形式との間に結ぶ関係であって、決して実体的なものではないということを、形式と内容との統一に関して、像でない場合と像である場合の違いを明らかにすることで説いていたのでした。

 さて今回は、三浦が言語の表現としての特殊性をどのように考えていたのかについて見ていくことにしましょう。

 三浦は言語の表現としての特殊性について、「絵画表現には見られない言語表現に特殊なものとして、規範によって表現が媒介されているという事実」(p.364)を取り上げます。ここでいう「規範」とは言語規範のことですが、言語規範については、前々回に軽く触れました。簡単にいえば、言語規範とは言語を規定する社会的な約束ということでした。では、なぜ言語にだけ、こうした規範が必要になってくるのでしょうか。以下、三浦の説く論理の流れを追っていきたいと思います。

 三浦は言語を表現の一形態として、つまり言語を模写として把握する姿勢を貫きつつ、「言語的な模写は絵画的な模写とは異っている」(p.366)と説きます。絵画の場合、対象の「感性的な色彩のありかたを忠実にとらえ忠実に表現することができるのだが、言語ではそれは不可能」(p.376)だというのです。では、言語では対象をどのように捉え表現するのかというと、言語は対象を「一般化して表現」(同上)すると三浦は説きます。例えば、我々が「赤い」といった場合、「色彩の変化に対してある幅を設定」(p.377)することになり、その「主観的な幅・主観的な境界線」(同上)の中にあるものはまとめて「同じ種類として近似的に扱っている」(p.378)ことになりますが、これが言語は対象を「一般化して表現する」ということなのです。そして、この主観的な幅の中にある同じ種類として捉えた認識を、三浦は概念と呼びます。ですから、端的にいえば、言語は概念を表現するものであるということになります。

 概念とはどういうものかをもう少し分かりやすく説明しておきましょう。例えば「犬」という言葉があります。ある人が「あっ、犬だ」という言葉を発した場合、その人の頭の中には、個別具体的な犬のイメージが描かれていることになります。茶色の毛並みの良い、大型の犬がこちらに向ってゆっくりと歩いてきているのかもしれません。黒色の小型犬が、目の前をサッと横切ったのかもしれません。いずれにしても、こうした情況における対象を言語で示すならば、それは「犬」ということになります。その時の認識は、対象の具体的なあり方がそぎ落とされ、種類という側面で対象を捉えているのです。これが概念です。また、「私は犬より猫の方が好きだ」という場合の「犬」は、具体的なあり方をもとから捨象して、種類として捉えています。これも概念です。このように言語では、「「一般化」して表象としてから概念化するなり、あるいは直接に「普遍相」を概念としてとらえるなりして、それを表現する」(p.381)ことになるのです。

 この概念というものは、現実の多様なあり方を一般化して捉え、具体的な感性的な認識が捨象されているものですから、超感性的な認識でありながら、それを運用するためには感性的な手がかりを必要とします。ここに言語の特殊性として、言語規範が必要になってくる理由があると三浦はいうのです。どういうことかというと、こういう種類の認識(概念)を表現するためには、こういう種類の音声や文字を使うのだという社会的な約束が言語には必要になってくるということです。感性的な認識を絵画で表現するのであれば、その感性的な認識のあり方そのものを忠実に絵画で再現すればいいのですが、超感性的な認識である概念を言語で表現する場合には、その概念をどういう種類の音声や文字で表すのかという社会的な約束がなければ、表現のしようがないということです。

 言語に言語規範が必須である理由について、以上のように説いた三浦は、「対象の感性的なありかたを感覚として忠実にとらえ絵画やカラー写真に忠実に表現するのが模写であるならば、対象を類的存在において概念として忠実にとらえ音声や文字の類的創造において忠実に表現するのもこれまたりっぱな模写で」(p.388)あると述べています。三浦は、言語にも表現一般の特徴である模写という性質が貫かれていることを主張しているのです。このことは逆からいえば、言語は表現の一種であることを証明しているともいえるでしょう。

 以上のように三浦は、表現とは精神の物質的な模写であって、言語も表現の一種であるとした上で、言語の表現としての特殊性について、概念という超感性的な認識を感性的な形として表現するために、こういう種類の認識(概念)にはこういう種類の音声や文字を用いるのだという社会的な約束である言語規範が必要になってくると説いているのです。ここでひょっとしたら、少し引っかかる読者があるかもしれません。それは何かといえば、「こういう種類の音声や文字」と述べたり、1つ前の引用では、三浦が「音声や文字の類的創造」と述べたりしていることです。音声や文字が「類的創造」であるとはどういうことか、この問題については連載第11回で詳しく述べていくことにします。





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最終更新日  2016年10月18日 08時58分25秒
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