カテゴリ:言語学
(8)言語における観念的な自己運動とはどのようなものか
前回は、三浦が認識の理論の柱として述べたものの1つである規範論が言語の問題とどのようにつながっているのか見ていきました。三浦は、表現一般における言語の特殊性として、規範を介した表現であると述べていました。ではなぜ、言語においては規範を介する必要があるのかというと、それは言語が超感性的な認識である概念を表現するからでした。感性的な認識であれば、絵画のように、直接それを感性的に忠実に表現することができますが、超感性的な認識である概念を表現しようとすれば、こういう種類の認識(概念)にはこういう種類の音声や文字を用いるのだという社会的な約束、すなわち言語規範を媒介して表現する必要があるのでした。 さて今回は、三浦の認識の理論のもう1つの柱である観念的な自己分裂という問題が、言語とどのように関わっているのかについて見ていきたいと思います。 三浦はまず、「言語表現は現実の世界のありかたを直接にとりあげるにとどまる場合もすくなくないが、…追想や予想や空想をとりあげる場合のほうが多い」(p.486)と述べ、「このような言語表現をとりあげる場合には世界の二重化および観念的な自己分裂がその背後に存在するものとして、認識構造を考えてみなければならない」(同上)ことを指摘します。それでは、「追想や予想や空想をとりあげる場合」に「世界の二重化および観念的な自己分裂がその背後に存在する」とは具体的にどのようなことか、以下で詳しく見ていくことにしましょう。 三浦が取り上げるのは、「少年だ」(1)と「少年だった」(2)という簡単な文です。 「現実の世界での対象が「少年」であるときには、…それをそのままとらえて、これに話し手の肯定判断「だ」を加えてそれですむ。これが追想になると、観念的な世界での対象「少年」をとらえて、観念的な自己としての肯定判断「だ」を加えてから、現実的な自己へもどって来て「た」をさらに加えるのである。」(p.487) ここで三浦は、いわゆる「現在形」で対象をとりあげる場合(1)においては、現実的な自己が現実の世界の対象を捉えて、そのまま肯定判断を下すだけであるのに対して、いわゆる「過去形」の文(2)では、観念的な自己が現実的な自己から分離して、過去の世界という観念的な世界に移行し、そこで対象を捉え、観念的な自己として肯定判断を下した後、現実的な自己に復帰して、これまでの表現が過去の認識の表現であったことを「た」で指摘するのだというのです。このように三浦は、実に簡単な構造の文であっても、「助動詞といわれるものが累加される場合には、そこに自己の立場の移行が存在することがしばしばであるから、その点に注意しなければならない」(p.488)ことを指摘するのです。 「明日は晴れるだろう」という表現では、観念的な自己が明日という未来の観念的な世界に移行し、そこで「晴れる」という対象のありかたを把握して肯定判断を加えて後で、現実的な自己に戻って、「う」という形で、これまでの表現が未来の認識の表現であったこと(「予想」であったこと)を表しています。また、「お化けはいない」という表現では、観念的な自己がお化けがいる空想の観念的な世界に移行し、そこで対象を捉え、そこから現実的な自己に復帰した後で、これまでの表現が空想の世界での認識の表現であったことを「ない」という形で、否定判断を加えて表しているのです。 三浦はさらに、いわゆる「歴史的現在」(過去の出来事であるにもかかわらず、それを「現在形」で表現する用法のことです)と呼ばれる「現在形」の用法について詳しく解説していきます。 三浦はまず、「現在」という時制がどのようなものであるのかについて、「同じ時点にあるという客観的な関係を現在とよぶ」(p.499)と説明します。これは具体的にどういうことかといえば、過去のある時点の対象について、その時点、その世界に移行した観念的な自己の立場からすれば、その対象は「現在」という関係にあるということです。このときの観念的な自己にとってその対象は「現在」という関係にあるということです。 以上のように、「言語表現における時制は対象における時の区別と直接に対応しない」(p.500)ことを確認した上で、三浦は、いわゆる「歴史的現在」というのは、観念的な自己分裂によって観念的な自己が過去のある時点に移行し、ここで対象を「現在」として把握し表現し、その後次々にその観念的な世界で対象を捉えていき、現実の自己に復帰しないままで表現し続ける場合のことであると説明します。通常であれば、「カエサルは、ガリア戦争を行い、ポンペイウスと対決し、ブルートゥスに暗殺された」となりますが、これを観念的な自己が古代ローマ時代に移行したままで事件を「現在」として把握し表現し続けて、現実的な自己に復帰しなければ、「カエサルは、ガリア戦争を行い、ポンペイウスと対決し、ブルートゥスに暗殺される」というように、いわゆる「歴史的現在」と呼ばれる形になるということです。現実的な自己から分裂した観念的な自己は、ガリア戦争やポンペイウスとの対峙やブルートゥスによる暗殺の現場を、カエサルと共に体験しているのです。 三浦は、こうした時制に関わる観念的な自己分裂の他に、代名詞における観念的な自己分裂についても述べています。例えば、「この俺が承知するものか」という表現を取り上げて、観念的な自己が現実的な自己を「こ」と呼べる位置に移行して、そこで対象たる現実的な自己を取り上げる場合の表現であると説明しています。また、親が子供に対して、「お母さんはちょっとお使いにいって来ますよ」とか「おまえにはお父さんの心配がわからないのか」とかいう表現を取り上げて、このような場合の「「お母さん」「お父さん」は客体化された主体であり、これを表現する主体は観念的な自己として現実的な自己の外部に位置づけられている」(pp.524-525)と説明しています。つまり、こうした表現を行う親は、観念的な自己を「現実的な自己の外部」、この場合であれば聞き手である子供の立場に位置づけて、子供の立場で現実的な自己を捉えて表現している、というわけです。 以上見てきたように、三浦は言語が表現される際に、現実的な自己から観念的な自己が分裂し、その観念的な自己が如何に運動するかについて、具体的に説明しているのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2016年10月19日 09時43分50秒
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