カテゴリ:言語学
3、三浦は言語を二重性で把握した
(9)客体的表現と主体的表現とは何か 本稿は、言語の問題を本質的に把握するためには、言語が認識とどのようにつながっているのかを明らかにする必要があるという問題意識のもと、三浦つとむ『認識と言語の理論』を読み解き、三浦言語学の歴史的な位置づけを明らかにするとともに、筆者自身の科学的言語学体系構築の一助とすることを目的として執筆するものです。 前回まで3回にわたって、三浦が認識から表現への過程的構造についてどのような解明をなしたのかについて見てきました。三浦はまず、言語を表現の一種と捉えて、表現が精神の物質的な模像であるとしたのでした。では言語が如何にして認識を模写するのかといえば、その過程において言語規範を媒介するということでした。超感性的な認識である概念を感性的なあり方に模写するためには、こういう種類の認識(概念)にはこういう種類の音声や文字を用いるのだという社会的な約束である言語規範が必要だということでした。さらに、言語の場合、認識から表現に至る過程において、観念的な自己が如何なる運動を行うのかという問題についても見ていきました。三浦は、時制の表現や代名詞を用いた表現において、観念的な自己が時間的、空間的に様々に移行しつつ、現実的な自己に復帰したり、復帰せずにそのまま観念的な世界に留まったりする認識の運動と言語とのつながりを解き明かしたのでした。 さて今回から3回は、言語の問題を論じる際には認識の理論が不可欠であることを踏まえた上で、三浦が言語を二重性で把握した中身を見ていこうと思います。まず今回は、三浦が言語を大きく客体的表現と主体的表現とに分けて捉えたことを見ていきたいと思います。 三浦はまず、表現一般が「客体についての表現であるばかりでなく主体についての表現でもある」(p.356)ことを、写真や映画を例にとって説明します。例えば写真であれば、「対象の感性的なありかたを忠実にとらえ忠実に表現する」(p.355)だけでなく、「作者が写真機を手にした位置」(p.356)をも表しているというのです。また映画の場合には、「ねむくなると画面がとけて流れる」(同上)ことによって、あるいは「よっぱらって帰って来た夫には、迎えに出た妻の顔が二重にも三重にも映じる」(同上)ことによって、あるいは「悲しい思いで手紙を読んでいるうちに、目に涙があふれて手紙の文字がぼやけてくる」(同上)ことによって、「主体的な認識のありかた」を表現しているというのです。このように、表現には表現しようとする対象である客体のあり方のみならず、対象を捉えるところの主体のあり方、例えば主体の位置であったり主体の生理的なあり方であったり主体の感情なども映し出されているというわけです。そして三浦は、客体についての表現という側面を客体的表現、主体についての表現という側面を主体的表現と呼ぶのです。 さらに三浦は、「対象の感性的なありかたを忠実にとらえ忠実に表現する場合には、客体についての表現が同時に主体についての表現でもある」(同上)と述べます。つまり、写真や絵画などの場合には、客体的表現と主体的表現とは直接統一されていて、分離することが不可能であるというのです。上記の例でいえば、写真が対象のあり方を表現しているのと同時に、作者がどの位置から写したかという主体のあり方をも表現しているのですが、両者は写真の画面の上に統一されていて、どの部分が客体的表現でどの部分が主体的表現だというようには分けられないということです。 では言語の場合の客体的表現と主体的表現とはどのようになるのでしょうか。三浦は言語の特殊性について、「主体的表現ぬきの客体的表現ということが言語表現にあっては可能であり、また客体的表現と関係ない独立した主体的表現ということも可能である」(p.393)と述べています。これは、言語においては、主体的表現と客体的表現とが分離する可能性があることを説いているのですが、それはなぜかというと、「対象の感性的なありかたに足をひっぱられない」(同上)からだといいます。つまり、対象の感性的なあり方を表現しようとするからこそ、表現者の位置や認識のあり方が必然的にそこに表れてしまうのであって、言語の場合には、概念という超感性的な認識を表現するのであるから、そうした制約からは解放されているというのです。例えば、山を対象として、絵画で描く場合と言語で表現する場合を考えてみましょう。絵画の場合、対象である山を目で捉えて、それを忠実に表現していくことになります。当然、絵画には山の客体としてのあり方の他に、主体である表現者がどの位置から山を捉えたのかが表れています。しかし言語の場合であれば、単に「山」と表現する限りにおいては、山が客体として把握されていることが分かるのみで、そこに表現主体のあり方は何ら表れてはいないのです。逆に例えば「あなたは学生ですか」と質問されて、「はい」と答える場合は、「学生」という対象のあり方を捉えた客体的表現を抜きにして、単に表現者の承認する気持ちを直接に表しているといえるでしょう。「学生です」という形で、対象のあり方を「学生」と捉えた上で、肯定判断という表現主体の認識を直接に表現する「です」を加えることもできます。いずれにしても、客体的表現と主体的表現が不可分に統一されているのではなくて、分離している(分離し得る)というのが言語の大きな特殊性だということです。 言語における客体的表現や主体的表現にはどのようなものがあるかについて三浦は、『認識と言語の理論』ではあまり詳しく説いていないのですが、『日本語はどういう言語か』において、日本語を例にして説明しています。客体的表現には、実体を対象として捉えて表現する〈名詞〉、属性を運動し発展し変化するものとして捉えて表現する〈動詞〉、属性を静止し固定し変化しないものとして捉えて表現する〈形容詞〉などがあり、主体的表現には、主観的な感情や意識を直接表す〈感動詞〉、〈助動詞〉、〈助詞〉などがあるといいます。また欧米の言語では、客体的表現の語に主体的表現の部分が語尾変化の形で癒着していて、別の単語として分離していないものも多く存在する事実も指摘しています。英語の”liked”のような動詞の過去形は、日本語では「好き・だっ・た」と客体的表現の語に主体的表現の語を累加した形をとるところを、一語で表していて、客体的表現と主体的表現が癒着しているということです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2016年10月20日 08時43分39秒
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