カテゴリ:言語学
(10)言語の「意味」と「意義」の違いを説く
前回は、客体的表現と主体的表現とは何かという問題に関して、三浦の見解を追っていきました。三浦はまず、表現一般について、客体のあり方を表現した客体的表現と、主体のあり方を表現した主体的表現とがどのようなものか説明していきました。例えば写真であれば、被写体となったものの表現であることは間違いないのですが、同じ写真の画面に、主体の位置も表現されているということでした。そして、感性的なあり方を忠実に捉えて表現する場合には、客体的表現と主体的表現とが不可分に統一されていること、言語の場合には、対象の感性的なあり方から自由であるために、客体的表現と主体的表現とが分離し得ることを確認しました。 さて今回は、三浦が言語を二重性で把握した中身の2つ目として、言語の意味と言語の意義との違いについて見ていくことにしましょう。 三浦は、言語が概念の表現であることを踏まえて、「概念以前の対象や認識のありかたの差異は表現の向こう側にかくれてしまって、聞き手や読み手が言語から直接にとらえることができるのはすべて話し手や書き手の概念でしかないのである」(p.381)と述べています。これはどういうことかというと、連載第7回で見たように、言語が表現する概念は、対象を一般化して捉えた認識なのですから、対象の感性的なあり方やその具体的な認識については、言語から直接把握することはできないということです。例えば、山を対象として絵画を描くのであれば、その具体的、感性的なあり方がキャンバスの上に描かれるのですから、「対象の感性的なあり方やその具体的な認識」を直接捉えることができますが、言語の場合、「山がある」といわれても、その対象たる「山」の感性的なあり方や、それを表現者が具体的にどのように認識したのかについては、言語から直接掴むことはできないのです。 ではどのようにして言語の内容(意味)を把握するのでしょうか。この問題について三浦は、「音声や文字に接したときに、その内容の抽象的・部分的な面を規範に従って直ちに予想するわけであるが、つぎにこの予想を手びきにしてそれ以外の話し手や書き手の認識がどんなものかを推察していき、内容全体の理解に達するのである」(pp.328-329)と述べています。ここで重要なのが、三浦が言語の「内容の抽象的・部分的な面」と言語の「内容全体」とを区別していることです。三浦は別の箇所で、「言語の場合は、規範に対応する抽象的な部分と具体的な内容とを区別する」(p.303)必要があるとも述べています。さらに『日本語はどういう言語か』においては、前者(規範に対応する内容の抽象的・部分的な面)を「意義」とよび、後者(具体的な内容全体)の「意味」と区別して、「意義」は「辞書の教えてくれる表現上の社会的な約束」(『日本語はどういう言語か』p.63)であり「普遍的・抽象的に対象を取り上げているだけ」(同上)だと述べているのです。また、「個々の言語はすべて「意義」に相当するものをふくんでいる」(同上)のであって、「話したり書いたりする場合の対象の認識には、個別的な事物の特殊なありかたが具体的にとらえられていて、いわば「意味」が「意義」に相当するものをふくんでいる状態にあ」(同上)るとも述べています。 ここで三浦が説いていることは、例えば、ある人が「犬がいる」という表現を行った場合、その「犬」という語から聞き手なり読み手が直接把握できるものは、ワンワン鳴く動物という概念だけであって、この語の「意義」から、具体的な内容、すなわちどんな大きさでどんな色の犬か、どちらを向いているのかといった「内容全体」つまり「意味」を把握して初めて、その「犬」という語を理解したといえるということです。 では、先の問いに戻って、言語の「意義」から言語の「意味」を把握するためには、どのようにすればいいのでしょうか。連載第6回に、「言語の内容(意味)は、認識が言語の形式(音声や文字)と結ぶ関係である」ということを述べました。また、連載第3回には、「認識とは客観的な現実の世界を感覚器官を通して捉え、脳細胞に描き出した模像」であることも述べていました。つまり、言語の表現者は、対象を把握して認識を形成し、それを音声や文字に表したのですから、言語の「意味」を正しく掴むためには、音声や文字に「むすびついている関係を逆にたどって、作者の頭の中へ、対象へと、その背後にあったはずの関係した存在をたぐっていく」(p.339)必要があるわけです。「表現は関係を逆にたどっていくための手がかりを形式として与えているのであって、この手がかりにもとづいて作者が表現したときの観念的な世界を自分の頭の中に近似的に再現しようと努力する」(同上)必要があるのです。 これがどういうことを意味するかというと、言語の「意味」を把握するためには、観念的な自己を現実的な自己から分裂させて、観念的な自己を表現者の立場に位置づけ、表現者がかつて辿った表現への過程を遡ることによって、表現者の体験を追体験する必要があるということです。こうして、表現者の認識を把握したうえで、現実的な自己に復帰し、表現に込められた具体的な内容全体を理解することができるのだということです。 以上のように三浦は、言語における「意味」と「意義」の違いを、具体的な内容全体と規範に対応する内容の抽象的・部分的な面との違いとして把握するとともに、「意義」から「意味」の把握への過程において、観念的な自己の運動が必要不可欠であることを説いたのでした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2016年10月21日 09時07分59秒
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