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ゆきよきの言語学・夏目漱石・日本史

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2016年10月22日
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カテゴリ:言語学
(11)言語表現と非言語表現との統一としての言語

 前回は、三浦が言語の「意味」と「意義」をどのように捉えていたのかについて見ていきました。言語は超感性的な認識である概念を表現したものであるために、音声や文字から直接把握できるものは、表現者の認識のうち、規範に対応する内容の抽象的・部分的な面でしかないのであって、これを三浦は言語の「意義」と呼んだのでした。一方、言語が表す具体的な内容全体のことを三浦は言語の「意味」と呼び、言語の「意義」から「意味」を把握する過程を解き明かしたのでした。具体的には、観念的な自己が表現者の立場に立ち、表現者が表現の過程で捨象した具体的な認識を追体験することによって、言語の「意味」を把握することが可能となってくるということでした。

 さて今回は、言語の二重性の最後の1つである、言語表現と非言語表現との統一とはどういうことかについて、三浦の論理展開を追っていくことにしましょう。

 連載第7回において、三浦が言語は「対象を類的存在において概念として忠実にとらえ音声や文字の類的創造において忠実に表現する」ものだと説いたことを紹介しました。簡単にいえば、言語は「音声や文字の類的創造」としての表現であるということです。ではこの「類的創造」とはどういうことでしょうか。このことに関して三浦は、以下のように説いています。

「たとえ、感性的な具体的なありかたとしてどんなに異っていても、行書で書かれた原稿用紙の文字を活字や電光ニュースで複製することが許されたり、あるいは文字を読みあげて音声で複製することが許されたりするのは、ほかならぬ種類として同一と認められているからである。これは、種類としての普遍的な側面こそが言語としての表現であって、種類として対応する複製ならば感性的にどのような変化があろうとも表現として忠実な複製であることを、実践的に承認しているのである。」(p.388)


「言語表現の持っている感性的なかたちそれ自体は決して言語としての表現でないからこそ対象の感性的なかたちからいくらでも遊離できるのだ」(p.387)


 ここで三浦は、音声や文字の二重性について言及しています。すなわち、音声や文字は「種類としての普遍的な側面」と「感性的なかたちそれ自体」という側面との統一であるというのです。そして三浦は、前者を言語表現、後者を非言語表現と規定しています。これは一体、どういうことでしょうか。

 例えば、「犬」という文字があります。この文字は、黒で書こうが赤で書こうが、行書で書こうが楷書で書こうが、鉛筆で書こうが万年筆で書こうが筆で書こうが、電光ニュースで流すために光の点で書こうが、どのような感性的なあり方をしていても同じ文字だといえます。ある一定の範囲に属している限り、同じ文字だとして扱うことになるのです。但し、限界を超えて別の種類として扱われてしまうような変更は許されません。「犬」という文字の「点」を中央下方に移して、「太」とすれば、これはもう別の種類の文字だということになります。音声についても同様です。「イヌ」という音声を、低く発音しようと高く発音しようと、早くいおうと遅くいおうと、その感性的なあり方に関係なく、同じ音声だといえます。ある一定の範囲に属している限り、同じ音声だとして扱うことになっているのです。但し、限界を超えて別の種類として扱われるような変更、例えば、「キヌ」(絹)とか「イン」(印、員など)とか発音すれば、これはもう別の種類の音声として扱われることになります。このように、音声や文字には、ある一定の範囲に属しているという種類の面(言語表現)と、具体的な感性的なあり方そのものという面(非言語表現)という二重性が存在していて、それらが統一されていると三浦はいうのです。

 三浦は非言語表現を活用する例として、「音声言語から相対的に独立した感性的な具体的な表現の系列を音楽として作曲するところに」(p.390)成立する「歌唱」(同上)や、「文字言語から相対的に独立した感性的な具体的な表現の系列を絵画として創造するところに」(同上)成立する「文字デザインあるいは書」(同上)などを挙げています。音声言語や文字言語の種類としての側面を保ちつつ、その範囲内で音声や文字の感性的なあり方、つまり非言語表現の部分を工夫して、様々な芸術が生み出されているというわけです。

 さらに三浦は、連載第9回に取り上げた客体的表現と主体的表現について、これらは言語表現だけではなく非言語表現にも存在するといいます。具体的には、非言語表現の客体的表現としては、以下のように、文字の配置で「「谷間」や蛾の「飛び立つ」ありかたを絵画的に示している」(p.395)例が挙げられています。



 非言語表現の主体的表現としては、「怒りや、憎しみや、悲しみや、あるいは愛情などが、非言語表現としての主体的表現すなわち声色によって示される」(p.396)例が挙げられています。例えば、「バカ!」という言葉を頑固おやじがいたずら息子を叱りつけるときに使えば、この声色という非言語表現が父親の怒りを直接に表現する主体的表現であると捉えることができるというわけです。

 以上三浦は、言語は「音声や文字の類的創造」としての言語表現という側面と、感性的なあり方そのものとしての非言語表現という側面とが統一されたものであると説き、この言語表現と非言語表現との二重性と、客体的表現と主体的表現との二重性とが複雑に絡み合った構造を解き明かしたのでした。





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最終更新日  2016年10月24日 09時29分34秒
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