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カテゴリ:本
「子どもへのまなざし」児童精神科医 佐々木正美著 福音館書店発行から。
今日の読書会は、待つことと全面受容について。とても共感できるお話です。 ◎育児でたいせつな待つという気持ち >教育とか育てるということは、私は待つことだと思うのです。「ゆっくり待っていてあげるから、心配しなくていいよ」というメッセージを、相手にどう伝えてあげるかです。 >じっさいの育児は育児書に書いてあるよりは、ゆっくりめでいいのです。まずこのことを、若いお母さんや保母さんにいってあげたいです・・・(中略)・・・なおかつ個人差があって、夜泣きをする赤ちゃんがいたり、あまりしない子がいるわけです。子ども一人ひとりは、そのほかさまざまなことに、相当大きな個人差があると思います。ですから、親の好みや都合どおりにいかない子どもがいたって、それはしかたがないのです。 >育児をするうえでもっともたいせつなことは、子どもにいきていくための自信をもたせてあげることです。それには子どもにとって、最大の理解者が親なのだということが、子どもにつうじればそれでいいのです。あとはいらいらしたりあせったりしないで、じっくり育児に取り組めばいいのです。 >待ってあげる姿勢は、子どもを十分信頼しているという気持ちを伝えることにもなります。このことは子どもへの愛を、子どもにもっともわかりやすく伝えることになるのです。 “待つ” 頭ではわかっていても、なかなか難しいです。待てない根本には、こちらの思うとおりにしたい、思うようにすすめたいという気持ちがやっぱりありますね~^^; ◎ありのままの子どもを受け入れる >人間というのは、どこかで全面的に受容される時期があればあるほど、安心して自立していけるのです。自分が全面的に受容されるということは、ありのままの自分を承認されるということです。ありのままの自分を承認されるということは、子どもにとっては、このままで私はいいのだという安心感、すなわち、自信になるのです。人生のできるだけ早い時期に、この安心感が与えられることがだいじなのです。 >人間はだれもが、たえず受容され、承認され続けていなければならない存在です。そして、大きくなるにしたがって、友人などとおたがいに受容し合う、相互依存の関係で生きていくことになります。その場合に、早い時期に十分な受容や承認を得られている子どもですと、それだけ相手を受容しやすい感情が育っていますから、相手からも承認を得やすく、友達もできやすくなります。ところが、そうはいかないで、孤立しがちな状態が続いてきますと、たとえば、思春期になっても仲間とか友人に恵まれないままでいることが多いようです。でも、なんとか相手に認めてもらおうとする若者は、非常に早い時期から熱心な恋愛をくり返しがちです。恋愛というのは相互が全面受容し合っている関係なのです。本当は仮の受容なのでしょうが。 >親は大きくなってからでも、子どもを受容してあげればいいのです。小学生になろうと、中学生になろうと、その意味は大きいのです。必要なだけ十分受け入れてあげるべきだと思います。 受容とか自立は、自分自身の存在への安心感につながっているんだなっということを、いろいろな子どもと関わる中でいつも感じます。基本的な安心感が薄いお子さんは、受容しあうことが苦手で、ほどよい距離感の相互依存がとりにくいです。受け入れてもらえると思うと、どんどんどんどん、どんどんと踏み込んできます。どこまでやっても許してもらえるのか試されているような感じにも思えます。早い時期の全面受容の経験や安心感の育ちが足りなかったんだろうなっと思います。大きくなってからの全面受容はけっこうしんどいですが、必要なんだよなっと思っています。 ◎子どもが失敗したときが親の出番 >子どもは幼児期から学童期をとおして、近所や地域社会や学校で、あれこれ失敗や不始末をしでかして、周囲の人に迷惑をかけます。そのつど、親や教師に注意はされても、それほどひどくはしかられないで、始末をしてもらいながら大きくなっていくのです。そんなとき、親や周囲の大人たちが、どのように子どもの失敗や問題を処理してきたかということが、おそらく、子どもが大人になり親になったときに、自分の子どもの問題にどのように対応するかということを、ほとんど決めてしまうのだろうと思います。親としてのあり方の世代間伝承という事実です。 >私は、自分の子どものしでかす失敗や不始末というものに、あまり悲しみや怒りを感じません。子どもをその失敗からどう立ち直らせるかということで、ここが親の出番だと、静かな意気込みをもつのです。この子がたいした失敗もしないで育ってしまうよりは、はるかにいいのですから。・・・(中略)・・・育児のもっともたいせつなところは、子どもが失敗したときに、そのときにこそ、親や家族がいちばん頼りになるのだというメッセージを、どう伝えることができるかということです。 >いちばん困っているときには、どんなに本人が不注意であろうとなんであろうと、わが家では基本的にはしからないのです。とんでもないことをやってしまったということだけで、子どもは十分に制裁をうけているのですから。親が「どうしてほしいんだ?」と聞けば、子どもが「先生にこういわれたからあやまりにいってほしい、僕のために先生にあれこれいわれると思うけれど、きてくれなくては困るんだ」というようなことは、ふつう子どもを育てていればよくあることでしょう。「あぁ、いってやるよ、そういう場合のためにお父さんはいるのだから」と、そういうときには、それだけをいってあげるだけでいいのです。そういうふうに、子どもが安心するように、ちゃんと親が失敗をとりつくろってやったからといって、子どもは安心して、また失敗するなんてばかなことはしないのです。極力やらないようにしますよ。親にあんなみじめな思いをさせてしまったということは、子どもにはこたえますからね。親がかーっとなったりすれば、子どもも自分がやったことを棚にあげて、言い訳や言い逃れに終始するでしょう。そんなときこそ、「心配しなくていいんだ、お父さんがいってあげるんだから安心していろ」と、いってやりたいものです。そのときに、「もう二度とこんなことをするんじゃないぞ」なんていう必要はないのです。それをいわないがまんというのも必要なのです。「どうしてそんなばかなことをしたんだ」とか、「どうして」なんて聞かれたって、子どもに答えられるものではないですよ。残酷な質問ですね。・・・(中略)・・・子どもが親を信じることができるようになるのは、子どもがもっとも困っている場面で、救いの手をさしだしてあげることだと思いますから。 ブラボー。ここまで言語化して伝えてくださると、とってもわかりやすいです。世のお父さんたちにプリントアウトしてお渡ししたい気分です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2004.08.07 00:51:42
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