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zusi_k

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Apr 20, 2010
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アニメの感想で作画崩壊という言葉が使われることも珍しくはない昨今ですが、見ることをやめてしまうようなレベルのものはほとんど無いと思います。
アニメの制作スケジュールや資金などが影響した作画の質の低下は起こりえるでしょうが、それでも10年前や15年前(1990年代半ばから2000年ぐらいまで)などといった時代などと比較すれば、それでも近年の質は全体的に高いと思います。
べらぼうに綺麗なアニメが地上波放送の中にもある最近の作画レベルで慣れてしまい、アニメを見ている人たちの目が肥え過ぎていることが作画崩壊という感覚を生みだしているような気がします。
綺麗なアニメで美しいと感じることが魅力となるアニメもあれば、いくら綺麗に見える画質であっても内容に意味がなければ見ようと思わないことがあります。
どのようなアニメに対しても素晴らしいレベルの作画を求めることは、ほとんど意味がないでしょう。

そもそもアニメの作画といっても、人物などの生物系、兵器や乗り物などのメカニック系、大自然から都会の風景などの背景、そういった大まかな区別ができるわけですよね。
最近はメカニック系に当たり前のように3DCGが使われていることが多く、その金属質の見せ方(CGの処理方法や手描きとの組み合わせ方)は様々なようですが、それこそ昔のファーストガンダムなどの時代のように大きくサイズやデザインの異なった作画が混在することはないでしょう。関節の無いところが曲がったり、ゴムのように微妙に伸びたりゆがんだりしない。
(逆にマシンのボリュームが設定に忠実すぎて、人間や背景などとの対比による演出的な視覚効果を狙ったオーバーサイズの描写を見かけなくなり、インパクトの面ではつまらないとも言える)
背景についてもCGやデジタル処理技術の向上があるせいか、書き込みの密度の差は直感的に感じることもできますが、昔のようなチープな色で幼稚園の舞台セットのような安っぽい背景はまずお目にかかれません。
都市風景については写真から加工したりすることもあるのか、遠景での建物などはかなり綺麗なものが増えています。
というか、背景の作画レベルがひどくて作画崩壊という表現を使うことがあるのだろうか?と考えると、ちょっとそんな事例には心当たりがありません。
つまり、作画崩壊という言葉を使うのは、やはり人物についてが大半じゃないだろうか??と思うんですよね。

私個人は絵心のない人間ですから、根本的にデッサン力がありません。
美術館へ行って好き嫌いを感じることはできても、彫刻なり絵画なりのデッサンを見てその素晴らしさを判断するということができない。
ネット上で作画について感想を述べている人の場合、個人的にイラストなどを描いている人も多いと思います。
ですから、私が全く気にならないような作画であっても、デッサンが狂っていることを見抜いているような人がいる場合もあるでしょう。
しかし、そういう場合であったとしても、じゃあそもそもアニメのキャラクターデザインにおけるデッサンの基準とは何か?という疑問も存在するはずです。
目が大きくぱっちりして顔の形がどれも同じで髪型と髪の色でしかキャラの違いが分からないとか、美少女キャラなどのデフォルメがもっとも顕著だと思いますが、デッサンの崩れどうこうを言う前に最初の「キャラの造形自体がアニメ的(あるいはマンガ的)な“お約束”によって成立している」という事実を忘れるべきではないでしょう。

例えば、左向きの顔に比べると右向きの顔はデッサンが崩れやすいそうです。
くどいようですが、そういう技術的な意味で作画が崩れることはありえると思います。
では、現実の人物を考えてみた時、美男美女がドラマや映画に出ているのを見て、いついかなる角度のどんな動作をしている時の顔も常に美しいのだろうか?
演技として表情がヘタな場合は論外ですが、基本的にはアップだけの表情や絵になる動作を計算通りの角度で撮っているからカッコ良かったりキレイだったりするだけでしょ。
ハンディカメラが普及している最近だと、少なからず自分で誰かを撮ることもあると思いますが、静止画にせよ動画にせよ知っている人をイメージ通りにとることは実に難しいです。
撮っている時には撮れていると思えたものが、あとから見ると全然イメージとは違うものになっている。
つまり、本当に技術的に未熟な作画の場合もあるにせよ、こうあってほしい・こうであるべきだという自分のイメージを対象に押し付けることで、実際とは異なり自分の中で見たいものが見れない不満を抱える状態に陥ることがある。
実写の人物にこう見えるはずがないと言うことはさすがに無いわけですが、アニメであれば、自分の思うイメージとは異なる見え方をしているキャラに対して、見たいように見えないのは作画が悪いからだと言ってるような可能性はないのか。思い入れがあったりお気に入りだったりするキャラの場合は特に。

アニメにせよマンガにせよ、キャラの表情や姿は“お約束”という記号の読み取りで成り立っている部分があるはずです。
その種類の多様性と洗練の度合いで日本のサブカルチャーは群を抜いているように思いますが、初めてそれを見る人がいれば、記号をお約束にしたがって正しく読み取ることは難しいでしょう。
作画崩壊などの言葉でアニメの感想を書く人は、少なくともそうしたお約束に慣れ親しんだ人だろうと思えます。
しかし、だからこそお約束からイメージする“こうあるべき”というキャラクターの作画を、自分の理想に合わせた高いレベルで求めるということはないのか。
見たいキャラの見たい表情、見たい姿。
それが動いたり少し遠くにあったりすると、そんな風に見えるはずがないと思い、見えるはずがない酷い見え方になるのは作画が悪いからだと。
自分のイメージ通りに見える個所もあって見えない個所もあるから、これは作画のレベルが安定していないからなんだと、そう思い込んでしまっている可能性はないのでしょうか。


どう見ても昔に比べれば格段に作画はよくなっているように思うこと、あらゆるアニメに理想的な美しさの作画を求めても意味はないこと、そうはいっても純粋にデッサンの狂いや技術的な未熟さが起こる可能性は否定できないこと。
それらを踏まえて考えても、いわゆる作画崩壊というものは、視聴者側の事情が生み出す錯覚のようなものが大きく影響しているのではないか?ということです。
アニメというものが記号を解釈することで成立する表現手段の一種にすぎないとするならば、解釈する側の主体に委ねられる部分もまた大きく、結局は作画崩壊というものは制作者側ではなく視聴者側が生み出しているという側面もあるのではないか。
せっかくアニメを見るのだから、「作画崩壊」という解釈の成立ばかりに目を奪われることは、その作品で表現したいものを伝えることのできない制作者の不幸である以上に、視聴者にとって大きな不幸であると言ってもいいような気がします。

まあ、静止画(カットやアップ)の多用で物語が進む、いわゆる紙芝居的なアニメというのは私も好きではないんですけども。
上記で触れている作画崩壊というのは、アニメの動きの中で絵が崩れているように見えることがあるケースを念頭に書いています。
うわっこんな風に見える!と、作画の崩れ(らしき見え方)を笑ってみせるぐらいの余裕をもってアニメを見るのも、一つの考え方ではないかと思います。
不真面目に作られているものでさえなければ、常に最高水準からの減点方式だけでしか物事を見れないというのも、アニメに限らず窮屈な考え方だと思えますからね。
アニメを見てわざわざ不幸になる必要も無いわけだし。





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Last updated  Apr 21, 2010 12:17:50 AM
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