性と死と暴力。(中)
人の死は万人に平等だというけれど、キャラの死は不平等である。いや、むしろ不平等であることで“物語”となるのだ。などという狙った言葉の書き出しは、ブログを書いたことのある人なら誰でもやったことがあるのでしょうが、それはともかく。キャラが「死ぬ作品」と「死なない作品」の区別は、見ている側としても大きな違いだと思います。ギャグっぽい展開で油断して見ていたら、いきなり主要キャラが死んだとか。モブキャラや敵キャラはバタバタ死んで行くけど、味方のキャラはどんなピンチでも死にそうにないとか。禁じ手にも感じられる展開の一つとして、盛り上がった展開で状況的にも死んだはずのキャラが実は・・・生きていたとか。まぁ、物語の大半は「生き残ること=勝つこと」なので、主人公たちが勝って終わる結末が多ければ死なないのも当然です。死んだ主人公を回想して始まるような物語もたまにはあると思いますが、短編や中編程度のボリュームに見かける程度でしょう。冒頭でいきなり死んだキャラが生き返るための物語を展開したり、むしろ死んで幽霊や妖怪などになってからが本当に始まるとかいう場合もありますが、そういう例では『死』の定義が作品特有の世界観に基づくものであることが多いと思います。そういう作品に限って、最近の中高生の間では死の概念がどうこうと、微妙にピントのずれた社会派的な批判が新聞やらの解説に載ったりしてしまうわけですが・・・今回の文脈では脱線の話題ですね。(作品の価値観への批評はあっていいのですが、それを現実の中高生の価値観に直結するのは、現実とアニメやマンガなどの区別がついていないのはどっちだ?という話)生死が関わるのはバトル展開のあるものだけとは限らず、ラブコメチックな物語に見えていたのに終盤で不治の病になったり、愛憎がもつれて殺し合いになったり、いわゆる「斜め上の展開」的な作品もあります。たいていは、キャラの背負っていた謎が明かされることで起きる出来事とその決着に際して、キャラが死ぬかどうかが分かれるような気がしますね。まったく逆にどう考えても死ぬだろうとか殺すしかないだろうという終盤で、いきなり愛や優しさ、友情や対話と和解などの“大切ななにか”に目覚めて誰も死なずに終わったりとか、そういう例もあります。明るい気分で見ていたはずがいつの間にか後味の悪い結末になったほうがよくないのか、悲劇や過酷な結末を覚悟していたのに拍子抜けさせられるほうがよくないのか。きっとこうなるはずだと予想することやこうあって欲しいと思う気分を裏切られること自体は作品を楽しむためには必要なことのはずですが、そこに主要キャラの生死が絡むと途端に作品全体への評価に直結するような話になりがちではないかと思います。例えばガンダムシリーズで定番化している仮面のキャラなども、死んでいたはずのキャラが生きていたとか、そういう謎を設定しやすい小道具なわけですよ。他にも、実は双子とか他人の空似で替え玉を演じるとか、キャラの生死を利用した物語はちょくちょくあります。問題となるのは、じゃあその設定や展開が物語の中できちんと私たちに受け入れられる状態で示されているのか否か、その一点に尽きるでしょう。そのキャラの生死に納得できる物語の展開を事前に示すことができているかどうか、ということ。基本的にキャラが死ぬ作品では、一人でも死んだ以上他の誰が死んでも不思議ではない・・・と考えて先を予想するのが普通のはずです。戦争などのバトルがあって、モブキャラはバタバタ死んでいくのに主要な敵も味方も誰ひとり死なない展開とか、むしろ違和感があります。バトルの中で殺してやるとか散々言いながら、それって本気では殺そうとしていないよね??って感じられる作品なども、個人的にかなり苦手で嫌いです。敵と味方に別れて因縁を背負ったキャラがお互いの言い分を叫びながら戦うのって、基本的には殺し合いじゃなくてケンカですよね。殺傷能力やスケールはともかくとして。同じ一つの作品の中で「モブキャラ相手には殺し合い」をして「主要キャラ同士ではケンカ」をするなら、それって単なる馴れ合いじゃないか・・・と思ってしまうわけです。冒頭に書いたように、たとえ戦争であっても主人公が戦いに不慣れな状態でいきなり死んでは話にならない以上、キャラの生死が不平等なのは構わないと思うんですよ。しかし、同じ作品の中ではルールは一緒であって欲しいというか、同じルールに見えるように取り繕っておいて欲しいとは思います。主要キャラの生死はそれだけで物語の起伏になるので、そうとわかっている私たちにとっても感情が揺さぶられる大きな要素となるわけです。それが陳腐に見えてしまった場合には一気にマイナス方向に興味が振れてしまい、作品を途中で放り出すことだってあるほど。見ている私たちがそれ(生死のイベント)まで溜め込んできた作品に対する細かな違和感や不満などが、それをきっかけに一気に噴き出すような感覚もあるのではないでしょうか。言われるまでもなくキャラの扱いに不平等さがあるのはわかっていても、いざ自分の中で処理しきれずに納得できない不平等さを見た時、「納得できないのは自分の側にある問題だ」として物事をとらえるよりは、「自分が納得できない作品を作る側の問題だ」と考えてしまうことに不思議はありません。もちろん、自分と作品のどちらかが間違っているという単純な(二分法というか二項対立というか)図式がそもそも成立しているのかどうかも疑問なわけですが、その時には自分の感情が揺れ動いた後なので冷静に考え直すのも難しいことが多いと思います。時間がたてば、違う考え方でもう一度作品のことを理解しようとしてみることができる場合もあります。しかし、批判したり作品自体を拒絶したりするほど印象深いことであったのならば、時間がたっても印象が薄らぐこともなく、最悪の場合には批判的な強い悪印象だけが作品全体の印象として自分の中に残ることだって考えられます。要するに何が言いたいかというと。作品の中でのキャラの生死は扱われ方も様々で、その扱われ方が物語の起伏や物語そのものだったりすることもある。で、それを私たちは多かれ少なかれ感情的に受け止めざるをえなくて、その生死が納得できるかどうかは作品の中だけで完結されるわけではなく、それを受け入れる私たちの感情などで判断されることになるはず。作り手の意図に沿った受け手の納得を作りだしてくれる作品は上手い作品だと言えるかもしれませんが、どうにも納得できずにずっと記憶にも感情にも残り続ける作品もまた悪いとは言えないと思います。とはいえ、あまりに受け入れがたい場合には作品自体を全否定してしまうことにつながるので、そういうこともあるのだと思いながら生死を扱う作品を楽しむような心掛けは、あってもいいのかもしれません。自分の価値観で納得できる不平等な物語を私たちは求め続けているのだ、とか言っておきましょうか。平等に見えるようにうまく装(よそお)った不平等を。納得できるキャラの生き様が描かれた作品よりも、納得できる死が扱われた作品のほうが“自分にとっての良作”と言えると思います。人は誰しも自分と合う価値観の作品をよく評価してしまうものである・・・はずですから。キャラの生死は“物語の生死”を決める、とはこれまた狙いすぎなまとめになるでしょうが、キャラの生死が受け手に与える影響は限りなく大きなものであると、私は考えます。(アニメやマンガなどの主な消費者層が、人生の中で生死観に疑問や考え方を持ち始めるとも言われる思春期と重なることも、キャラの生死を巡る色々な意見に影響を与えてもいるのでしょうし)