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ロシアの「プーシキン美術館」に名前を残す偉大な文学者で、現代ロシア語を確立した人物
「アレクサンドル・プーシキン(1799-1837)」は37歳という若さで当時は禁止されていた決闘によってその生涯を閉じます。 「芸術広場」中心に建つプーシキン像。 近くにはオペラ座などの建物が。 モスクワで由緒ある貴族の子として生まれ、12歳でサンクトペテルブルグの学校に入学します。在学中に文学に親しみ1820年に「長編詩」を発表したのを皮切りに次々に作品を発表していったようです。またロシアの「農奴制」を批判して政府や皇帝と衝突を繰り返す骨太の文学者でもあったようです。 決闘の原因となったのは彼の類いまれな美貌を持つ妻「ナタリア・ゴンチャイトロ」の2つのスキャンダルでした。最初は彼女に思いを寄せるフランス人士官の「ジョルジュ・ダンテス」との浮気の噂ですが、これはダンテスがプーシキンの義姉「エカテリーナ」と結婚することで治まります。そして2つ目がなんと皇帝「ニコライ1世」がナタリアと浮気しているとほのめかす怪文書ががプーシキンのもとに届いたことで再び火が付きました。 その怪文書を書いたのはダンテスの養父「ヘッケンレン男爵」でダンテスとの同性愛の噂を払拭するためだったのではという説まであって、結局プーシキンの怒りは養父からダンテスへと戻って行ったようです。そしてダンテスとの噂を敢えて否定しなかったナタリアには今でも「プーシキンの死に対する罪がある」と考える人は少なからずいるようです。 「エルミタージュ美術館」では皇帝の肖像画の前で授業が行われていました。 ニコライ1世はその噂が本当なのかと思わせるほどプーシキンの死後、残されたナタリアとその息子や娘たちに援助の手を差し伸べています。ニコライ1世と言えば「ナポレオン3世」の従妹「マチルド・ボナパルト」がロシアの大富豪と別居することを決めた際に多額の慰謝料が手に入るように画策したり、プライぺートの事では「人情派皇帝」というイメージがあります。 そして決闘で生き抜いた「ダンテス」の方はニコライ1世によって国外追放の処分を受けますが、フランスでナポレオン3世に取り立てられ終身の元老院議員にまでなっています。「決闘を申し込まれてロシアから退去させられたお陰で祖国フランスで政治家として輝かしいキャリアを残すことが出来た」という彼の証言まで残っているようです。 人生何が起こるか予想不能という感じですが、少なくてもプーシキンは決闘で亡くなったことによってより長く広く世界中にその名前を残したのだと思います。 余談ですが、今週の大河「青天を衝け」でいよいよナポレオン3世の登場です。予告でちらっと顔が見えました。そしてナポレオン3世から贈られた軍服を着た「草彅君(勿論慶喜です)」なかなか様になってましたね☺ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022.08.01 09:53:50
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