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2023/10/04
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カテゴリ:憲法・社会変革
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論考 - ブログ村ハッシュタグ
#論考


 日本人の中で「憲法」現実に、を読んだことがある人の割合はとても低い。

 私の記憶が正しければ、『日本国憲法』を一読でもした事があるという人を含め、「読んだ
事がある」という人の割合は、25パーセント程度では無かったかと思う。
 
 ましてや、『日本国憲法』には、その前に、元となった、「英文で書かれた原文」があるのだという事を知っている人や、それを見たこと、読んだり翻訳をしたりした事があると言う人は、ほとんどいない。
 一方、逆に、「大方の日本人は、憲法に関心と興味を抱いているのだ」という事もまた事実として書き加えておかねばならないが。
 
 政府が「隠して」いる訳でもなく、その気になれば誰でも読むことが出来るにも拘らず何故、日本人は『日本国憲法』に実際アクセスしないのかまた何故、「憲法」を実際に読む機会が、かくも少ないのか?。

 大方の国民は、そのような原文の存在に「おどろく」人達がほとんどだ。「そんな原文など、博物館へでも行かなければ、見る事も触れる事も出来ないのではないか」と思っている。

  一体これは、どういうことなのか?日本は本当に民主主義国家であると言えるのか?
 
 私も、他の民主主義国で暮らした経験上言えば、民主主義国家を標榜する日本に、どうして自国の憲法を教える時間も教科書も、存在しないのか?ブラジル連邦共和国でもアメリカ合衆国でも、高校では「憲法」の時間がきちんと割り振られていたが。
 
 「日本海軍と仏教思想」という一連の項を書こうと思って、以前、憲法の事を書いた時に感じたのは、日本人の、憲法に接する機会が少ない事と、これについての私の所感を書きとめねばいけないなとの思いが、頭を過ったことである。
 だから、ここでは、補記として日本人も『権利章典』を作ってはどうか、という思いについて考えたいと思う。
 「憲法」が、何のためにあるのか、それは「誰のもの」なのか、を明確に「知る」ことが出来るなら、国民によって為される『権利章典』の作成という作業の「工程」だけでも、大いに意義のある事だ。日本人にとって、「これが我々日本国民の作品なのだ」と言えるぐらいの大きなイベントでもあり、初めて味わう、「ショッキングな出来事」になるだろう。
 この作業工程が、日本人に初めて『日本国憲法』を読む機会を「イヤ」でも与える事になるだろうし、この「ショッキングなイベント」が、「憲法」についての考えを深める機会にもなろう。
 
 これが仮に可能なら、 国民全体、1人残らず参加する大きなイベントとなろう。「今さら憲法教育なんか、大変だ」という「お役所や、公教育の理屈」はいらない。イヤでも「憲法」を読まなければ、何も出来ないイベントなのだからだ。
 その一人一人が皆、考えなければ「ダグアウト」にいて、何もしないのと同じ事になるのだからだ。仮に『権利章典』をまとめるこの作業の「工程」が可能だとすれば、この作業の「工程」を通じて、個々人が1人残らず、その経歴に関わらず、何らかの判断を、わざと強いられる事となり、その個人が為すであろう判断の正誤にもとらわれず、1人残らず、我々日本人の「大切な自由と権利」とを、一つの「形にする」若しくは「戦い勝ち取る」者の、「名誉ある1人」となるあろう。
 
 この戦いには、誰の為した、どのような判断も全てが、尊い弾痕、「戦いの痕跡」となって後世に残されるのだ。
 この「工程」を通じてすべての国民は、「憲法」について考え、また、これを「全て読む」事となる。「今更、憲法教育なんて」という言い訳は通用しなくなるだろう。すべての国民が少なくとも『日本国憲法』を読み、その中身を知る事になるからだ。

 現代には幸いにも、これを可能にするネット環境がある。ネット上で闊達な議論も、アンケートも、会議も可能ではないか。日本でも、既にこれを可能とする環境は整えられているのに、何故ネットを活用しようとしないのか、或いは、出来ない理由だけを考えているのが日本の行政なのだろうか?
 ネットの出来ない環境の人も、その意思を、投票で示すという民主的な行為は可能だ。マイナンバーカードは、八割型の国民に普及したと言うではないか。折角のマイナンバーカードをどうして日本の行政は、有効に使おうとしないのか?

 よく耳にする、日本人には、革命が無かったから」式の言い方は、言い訳であろう。なぜならば、「革命が無かった」のは仮にそうであるとしも、それは、過去のことであって、「我々の今後」に通じてはいない。私は、我々の「そう、遠くない将来」に通じる事を考えたい。革命など経験しなくとも『権利章典』を「形にする」事で、有効に日本を、あるいは「我々の、そんなに遠くない未来」を、より民主的に出来るではないか。
 日本における、『権利章典』の制定は、「国民による、国民のために為す」「うごき」によって、議会を動かす事でもあるのである。 
 
 民主主義は「何もしないでジッといていても、何もはじまらない しくみ」なのである。
 民主主義と言う「しくみ」は、以前のこの項にも書いたように、「公正な環境」の下で話し合われたことを元に、何かを「為そうと」動かなければ、何も始まりはしない「しくみ」なのである。
 
 「だれかが、あなたのために、何かを為してくれるであろう」と言うのは、優し気に聞こえて、実はとても危険な妄念だ。そんなことを誰があなたに為したか?「誰も」その様なことを、あなたに為す人など、いないのである。
 無論、この場合「誰か」は、国家であり「あなた」とは、「個々人」若しくは「国民」である。

 「自分でする事」若しくは。「自分たちで」何らかの「うごき」を示す事からしか、国家は「動き」を示さないのが、民主主義と言う「しくみ」なのでる。

 「参加しないでいること」は、この場合、「孤高とした識者」みたいに見えて実はただ「ダグアウトにいて、チームワークに参加しない選手」みたいな、人のことになる、「ダグアウトミッキー」と言われたら、ミッキーは「チームに参加しない人」としてのミッキーという事になるのだ。
 ダグアウトで、ただ腰かけているだけ、見てるだけという人達は、例えば、政治に興味がないから、投票に参加をしないで、文句だけ、評論だけしている人のような人である。
 
 投票日に「ダグアウト」にいる人は、実は、日本の有権者に占める比率の6割近い。選挙によっては有権者の7割が、上に書いた「ダグアウトミッキー」みたいな人たちだ、投票に行かないのに政治に文句だけは言う人達が、日本には場合によっては7割程度はいるのである。(もちろん、病気や仕事、やむを得ない事情で、どうしても、投票に行けないという場合は例外である。)

 話が投票の事に飛んでしまった。他人の事ばかりを批判しながら、自分の事は隠しておくみたいな事になるので、序に書いておくが、私の「投票実施率」は、ここ20年以上で見ても98パーセント程だ。「棄権」は体調を崩した2回と、つい、この前にあった、区長選挙をうっかり、忘れたのみである。私事で恐縮するが。
       
       私が言う『権利法典』の制定もまた、投票と似ている。
 
 民主主義は然し、参加し無ければ「動き」を示せない事になる。大切なのは「うごき」を示す事なのだ。革命は起こさなくても、この「動き」によってのみ、国家は動き、何らかの変化は起る。

 だから、自由に且つ、「民主的に行為する」という事は、個人を重視する「しくみ」の中でのみ。為し得るものだといえよう。このような個人を重視する制度としての投票というものがある以上は、これを大事にすることからしか、我々の自由は守れないのではないか。
 投票へ行かないという行為は、個人を大事にする制度を蔑ろにする事であろうと危惧するのみならず、政治への不信感と政党政治の危機を大きくしまうのではなかろうか?決して、事大主義で言うのではなく、同じ事が過去にも起きたではないか。
 そして「誰かが、あなたに何かを為そうとした」否、「してくれようとした」実はそれこそが、軍隊では無かったか?「何かをしてくれようとした」が、事はあの悲惨な結果を招来した。この様には考えられないだろうか?
 
 この様に見るならば、自由はとても脆く、民主主義は、常に、とても「危機的な状況」にあるのではないか?
 
 安泰な自由や民主主義など、聞いたことはない。少なくとも私の生きた時代はすべて、自由も、民主主義も、常に危機的なものだった。
 
 不断の努力で守らないと、それらは脆く、危ういものだから、すぐに失われてしまうものなのだと、そうは思わないだろうか?

 若しも私が考えるような、日本版『権利章典』の制定が可能ならば、それは日本において、初めての「国民が、国民のために、自分で為しえた事」になるであろう。それは初めて「国民が、国民の手で勝ち得たもの」となるだろうからである。
 繰り返し言うが、革命などを経なくとも、日本を変革する事は出来るのである。

 『日本国憲法』は、これ自体が実は、革命的な文献でもあるのだ。決して、「押し付けられた憲法」ではない。
 
 自由民主党の言う、「改憲論」に引っ張られてずるずると、9条改憲などを、してはいけない。
 
 改憲は、政党から言われて為す事ではなく、本当の民主主義ならば、「国民が発意し議会を動かすべき」が、筋なのである。政党から言われてする改憲は、危険である。憲法は、「国民のもの」であって議会や政党の都合で変えられるべきものでは無いのである。この点を、我々は常によく、考えなければならない。


 我々は『日本国憲法』をもっと理解すべきだと思うので、補記として書いた。日本がほんとうに、民主化される事を祈りつつ。

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Last updated  2023/11/14 04:47:27 AM
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