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行政書士徒然日記

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きゅうりやのばんちゃん@ Re:病気入院(11/16) きょう、足跡を見つけました。 うれしか…
kotona♪@ あけましておめでとうございます タケルさん、早く良くなってくださいね♪ …
総徳@ 謹賀新年 明けましておめでとうございます まだ…
総徳@ え! 大丈夫? なんだ、なんだ! 緊急入院ですか! …
Mrs. Linda@ Re:病気入院(11/16) 暫く更新がないのでどうなさっているのか…

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タケル0127

タケル0127

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2009.10.13
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カテゴリ:歴史

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尊氏像とされる「騎馬武者像」(高師直像説も)

 足利尊氏は、鎌倉時代から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍。

本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系、河内源氏の棟梁、鎮守府将軍八幡太郎義家の子、義国を祖とする足利氏の嫡流。足利将軍家の祖。足利貞氏の嫡男として生まれる。初め執権・北条高時から偏諱を受け高氏と名乗った。元弘3年に後醍醐天皇が伯耆船上山で挙兵した際、鎌倉幕府の有力御家人として幕府軍を率いて上洛したが、丹波篠村八幡宮で反幕府の兵を挙げ、六波羅探題を滅ぼした。幕府滅亡の勲功第一とされ、後醍醐天皇の諱・尊治(たかはる)の御一字を賜り、名を尊氏に改める。

 後醍醐天皇専制の建武の新政が急速に支持を失っていく中、中先代の乱を奇貨として東下しこれを鎮圧した後鎌倉に留まり独自の政権を樹立する構えを見せた。これにより天皇との関係が悪化し、上洛して一時は天皇を比叡山へ追いやったが、後醍醐天皇勢力の反攻により一旦は九州へ落ち延びる。九州から再び上洛し、光厳上皇および光明天応から征夷大将軍に補任され新たな武家政権(室町幕府)を開いた。後醍醐天皇は吉野へ遷り南朝を創始した。

  幕府を開いた後は弟・足利直義と二頭政治を布いたが、後に直義と対立し観応の擾乱へと発展する。直義の死により乱は終息したが、その後も南朝など反幕勢力の平定を継続し、統治の安定に努めた。後醍醐天皇が崩御した後はその菩提を弔うため天竜寺を建立している。北朝においても後光厳天皇の新千載和歌集は尊氏の執奏によるもので、以後の勅撰和歌集が二十一代集の最後の新続古今和歌集まで全てで足利将軍の執奏でによることとなった発端にあたる。

 (後醍醐)天皇に叛旗を翻したことから明治以降は逆賊として位置づけられていたが、第二次大戦後は肯定的に再評価されているように、歴史観の変遷によってその人物像が大きく変化している。

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 尊氏は嘉元3年(1305年)に御家人足利貞氏の次男として生まれた。生誕地は綾部説(漢部とも。京都府綾部市上杉荘)、鎌倉説、足利荘説(栃木県足利市)の3説がある。「難太平記」は尊氏が出生して産湯につかった際、2羽の山鳩が飛んできて1羽は尊氏の肩にとまり1羽は柄杓にとまったという伝説を伝えている。幼名は又太郎。元応元年(1319年)10月10日、15歳のとき元服し従五位下治部大輔に補任されるとともに、幕府執権・北条高時の偏諱を賜り高氏と名乗った。父・貞氏とその正室・釈迦堂(北条顕時の娘)との間に長男・足利高義がいたが、早世したため高氏が家督を相続することとなった。「難太平記」によれば、尊氏の祖父・足利家時が三代のちに足利氏が天下を取る事を願って自刃したとされている。

 元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が二度目の倒幕を企図し、笠置で挙兵した(元弘の変)。鎌倉幕府は有力御家人である高氏に派兵を命じ、高氏は天皇の拠る笠置と楠木正成の拠る下赤坂城の攻撃に参加する。このとき、父・貞氏が没した直後であり高氏は派兵を辞退するが、幕府は妻子を人質として重ねて派兵を命じた。「太平記」は、これにより高氏が幕府に反感を持つようになったと記す。幕府軍の攻撃の結果、天皇をはじめとして倒幕計画に関わった日野俊基・円観などの公家や僧侶が多数、幕府に捕縛され、天皇は翌年隠岐島に流された(元弘の乱)。幕府は大覚寺統の後醍醐天皇に代えて持明院統の光厳天皇を擁立した。

 元弘3年/正慶2年(1333年)後醍醐天皇は隠岐島を脱出して船上山に篭城した。高氏は再び幕命を受け、西国の倒幕勢力を鎮圧するために名越高家とともに上洛した。名越高家が赤松円心に討たれたことを機として、後醍醐天皇の綸旨を受けていた高氏は天皇方につくことを決意し、同年4月29日、所領の丹後篠村八幡宮(京都府亀岡市)で反幕府の兵を挙げた。諸国に多数の軍勢催促状を発し、近江の佐々木道誉などの御家人を従えて入京し、同年5月7日に六波羅探題を滅亡させた。同時期に上野国の御家人である新田義貞も挙兵しており、高氏嫡子で鎌倉から脱出した千寿王(後の義詮)を奉じて鎌倉へ進軍し、幕府を滅亡させた。この時。高氏の側室の子・竹若丸が混乱の最中に殺されている。

 高氏は鎌倉陥落後に細川和氏・頼春・師氏の兄弟を派遣して義貞を上洛させ、鎌倉を足利方に掌握させている。

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Last updated  2009.10.13 16:26:58
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