シュタイナーの人智学的医術その304
しかし、霊界へと境界を踏み越えた瞬間、人間はすぐに、霊界の策略に入り込む。実際、霊界の至る場所に罠があり、人間は、小鬼たち(悪い精霊)から学び、用心する必要がある。 例えば、心霊主義者(スピリッチャリスト)たちは用心深くない。罠が至る所に張り巡らされ、次のような問いにいきつく。 「悪いノームやウンディーネたちが寄生生物を発生させるなら、そもそも一体、この寄生生物は何のために存在するのか?」 もし、これらの悪い精霊たちがいなければ、人間は、自らのなかに、その脳という塊を作り出す力を発達させることができなかっただろう。 (聖書の記述通り、人間の知性は脳にあり、脳は、悪い精霊たちが、人間のなかに寄生生物になった下等生物を付加したことでできたという。昨今、粘菌と脳の関係が取り沙汰されているが、この講義から、関連性がわかる。) 従って、この問いから、極めて重要な真実に到達する。 この真実を図式的に描いてみる。人間を、新陳代謝-四肢人間と、胸-リズム人間と、頭人間の神経-感覚人間として、3つに大別して考えるとき、明白に理解すべきことは、胸人間(リズム人間は除外)の下のプロセスの進行と、胸人間の上のプロセスの進行は相対することである。 上と下で生じるプロセスを一緒にすると、本質的に、通常の生活において、大抵、誤解されている結果が生まれる。その最たるものは、腸や、腎臓を通じての排泄を代表とする下へと流出する全排泄プロセスである。 大抵、この排泄プロセスは、単に排泄が目的のプロセスとしか見られていない。しかし、この見解は馬鹿げている。 排泄のための排泄ではなく、(胸部より)上で、物質的な脳の類似物が出現するのと同じ量の排泄物が、下部の中に霊的に出現する。下部で生じている排泄プロセスは、物質的進展において中途の段階に止まっている。 排泄が行われるのは、排泄プロセスが霊的な実質へと移行するからで、上部においては(排泄)プロセスは(脳の形成として)完了している。下部における霊的実質が、上部では物質的実質へと形成される。 つまり、上部では物質的な脳を、下部では霊的な脳を人間は持っている。 もし、下部で排泄された霊的実質を、更なる排泄プロセスの支配下に置き、改造を続けていくなら、最終的な変容として、人間の脳となるだろう。 人間の脳は、更なる排泄により変容形成を受けた排泄物である。この真実は、例えば医学的な関連においても、非常に重要なことで、16、17世紀の当時の医師たちにはまだ熟知されていた知見であった。 今日では、かつての「排泄物薬局」として軽蔑されても、当然な間違った知見もあるとはいえ、非常に軽蔑的に語られている。しかし、当時の知見を馬鹿にするのは、排泄物のなかに、いわば「霊のミイラが存在する」ということを、知らないせいである。 勿論、だからといって、近代の数世紀において、排泄物薬局として現れた、間違った見解を崇拝するわけではなく、いま、ここで述べたような深い関連を持つ、多くの真実を指摘するだけである。 (太古の医者は、排泄物から、人間の特徴を推測できたようである。いまでも動物学者の一部が、動物の排泄物から、動物の状態を言い当てることができることから、わかる。太古の医者は、人間の糞から、その人の気質「自我」を読み取り、尿から、その人の感情「アストラル体」を読み取り、汗から、その人の体質「エーテル体」を読み取ったようである。) 脳は、純粋に排泄物の高次の変容体である。従って、脳の病気は腸の病気と関連し、脳の病気の治療は腸の病気の治療と関連している。 ノームとウンディーネが存在することで、ノームとウンディーネが生きることのできる世界があり、力が存在する。勿論、人間の下部に、寄生生物を発生させることもできるが、同時に、上部のなかに、排泄物を脳に変容させる切欠ともなる力を与える。 もし、ノームとウンディーネが存在するように、この世界が作られていなかったら、人間は脳という器官を持つことはできなかった。 破壊力に関しては、ノームとウンディーネに当てはまる(破壊、解体は、やはり脳から生じる)が、構築力に関しては、シルフと火の精霊に当てはまる。