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テーマ:海外生活(7779)
カテゴリ:読書
本当は、今日の教会の説教に内容について感じた事を書きたかったのですが、長くなりそうだし、考えもまとまっていないので、それは延期(笑) その代わり、その時に、ぜんぜん関連がなさそうなのに、ふと思った「本を読める」ということの幸せについて。 宗教の中でも、一神教であるキリスト教、イスラム教、ユダヤ教などは、旧約聖書を共通に持ちながら、トーラーや新約聖書やコーランなど、それぞれの「教典」がある。 仏教に至っては、仏陀その人は何も書いたものを残さなかったが、その話をまとめた大勢の弟子達、そしてそれを発展させていった(と思われる)後代の経典が、何千巻とある。 しかし、こういった本、あるいは教典、経典のたぐいを読める人は、その時代時代ではごく限られたエリートだけであった。 日本では比較的早く民衆の間での識字率が高くなり、江戸時代にはいろいろな瓦版や草子の類が庶民の間で読まれたようだ。 しかし、それにしても、例えば明治になっても、大正になっても、下手をすると昭和になっても、小説でベストセラーになった、といっても数千冊も印刷されれば大ヒットであったらしい。 ヨーロッパでも、中世に印刷が中国から伝わり、本というのが作られたのは、ちょうどマルティンルターによる宗教改革の時期と重なる。 つまり、彼の宗教改革は、それまで聖職者しか持たなかった、あるいは読めなかった「聖書」というものを、発明された印刷術で、大衆に広めた、その結果としておきた改革ということもできる。 それでも、聖書以外では、小説や、哲学、思想、などなどの本は、なかなか識字率が上がらない中で、やはりごく一部の人のものであり続けた。 つまり、有名な作家で、評判もよく、皆に読まれた、と言われる本であっても、その「皆」というのは、ごく限られた人たちであった、ということだ。 その点、今のように、欲しい本、読みたい本が、いつでも、どこでも、お金を出せば買える、あるいは図書館で借りられる、そんな状況になったのは、本当に最近のことであり、人類の長い歴史の中でも初めてのことであろう。 それも、自国の本だけではなく、英語であれ、フランス語であれ、ドイツ語であれ(ちょっと西洋に偏っているきらいがあるが・・・)、評判のよい本はすぐに翻訳され、我々が手にとることができる・・・・ これは、考えてみればなんという幸福なのだろう、と思う。 そして、今は、この情報の流通が、本にさえ頼らず、インターネットという媒体で世界中に瞬く間に広がる、そんな時代になっている。 本を読める幸せ、イコール、多彩な情報に接することができる幸せ、とするなら、本は本で電子化され、本という体裁をとらない生の情報さえ、簡単に交換できるようになっている今の幸福を、あらためて感じている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.07.18 23:08:18
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