秋冬の夜長にはジョン・ダンが似合う
最近は淡と書物を読まなくなった。少なくとも自分はその類に入る。ネットやメールが日常化し、利便性に優れてはいるが、その機能性のみに始終された話口調の薄っぺらな事象に感けている。久々に本を取出し眼を通す。ネットの文字は常に記憶の構造に蓄積されない。ニュースであろうが電子書簡であろうが、覚るという事には難を要する。ところが紙面に読むニュースや文献は覚えている。何故なのか。本も然りで脳の構造が斯くもこう出来ているのだろうかと思えてしまう。これは時間の経過や慣れで出来るようになるものではないと鉦がね実感している。今日は小生の最も好きな詩人であり哲学者であったジョン・ダンをちょっと紹介したい。西暦1500年代のイギリスを代表する詩人であり哲学者であった彼は、かくも秋冬の夜長に最も相応しい詩を書いた。500年も昔の詩人でありながら、今に通ずる何ら変わりがない文章や喩が数多く載せられ、その文章も書き方も今風なのだ。風刺に勝る真実を程好く語り、嫌味がなく伝わる。類稀なる珠玉の宝石のように輝き、さり気無く無垢の真実が散りばめられている。 理性は真実から最も遠いところにあるもの普くは真実とはそのものである。天国と地獄の境目など、紙一枚の隔たりもない。歩んだことのない道に立つのは、彷徨うのではない。神秘は太陽のようにまぶしいが、誰の目にも明白なのである。苦痛から我々を救ってくれる薬のうちで眠りが最も容易に入手できる。殺さずに死の効用を果たすのだから。過去を振り返り、それを新年の手本とするような人は、新しいページをめくらずに同じところを読んでいるのにすぎない。異邦人になることには一つの利点がある。すなわち習慣になる前に、始まったばかりの悪癖を直せるのだから。別れが一つの区切りならば、別れは新たな始まりとなる。同一の女に於ても、まったく新しい始まりをみることになる。無駄な時間を過ごしたと感じるとき、それは単に時間が過ぎていったことへの後悔ではない。侮蔑や嫌悪、醜悪さえもそこに忘れ物として残していってしまうものである。先にあるものを前から恐れることによって、人は痛みを増すことになる。自らの肉体は死から救出されるものなのかもしれない。魂とて生まれつきに自由なものではなく、死から救われることが多いのだろう。真心がうまく表現できない時でも、神はそれをよしとされる。真心から誉める人は祈っている。神は幸運に恵まれた時は喜びを抑え、不幸になれば悲しみを沈めてくれる。人から誉められてそれがお世辞とわかる時、忠告に負けない効果を発揮して自己努力を高めればよい。人間としての優れた部分は、情熱よりも純粋なものであり、望む前に相手から受け入れられるものなのであろう。僕の孤独との語らいは楽しみも多い。そのなかで独り以外を思い出す時、寂しさを感じる。独りという孤独は淋しいこととは言えない。淋しいと感じるのは愛する人が今、隣に居ないことである。不親切で冷淡でありながら奇蹟を行なうよりは、むしろ親切と慈しみのうちに間違うほうを選びたい。最も悲惨なことは、飢餓でも病気でもない。自分が誰からも見捨てられていると感じることだ。数秒で起きえた痛みがその回復に数ヵ月、数年の月日が繋ることも有りうる。何故、痛みと共に暮らせないのか。・・・気が付くと既に直っていることさえ有りえるのだから。