カテゴリ:日々の雑感
観葉植物。 その名の通り、花もなく、緑の葉だけの植物ですが、これが部屋にあることで不思議と癒されるものがあります。 グリーンという色が人間の心に安心感をもたらすのは、太古の昔からの自然というものに対する生理的な帰属本能のようなものが存在するからでしょうか。 しかも、まめに世話をすることなく、ほとんどほったらかし状態のままでも気がつくと、季節ごとに次第に成長して大きくなっています。 勿論、花のもつ鮮やかさや明るさに比べると、観葉植物の存在感は空気に近いようなものであって、特に目を惹くわけでもなく、そこにあって当たり前という日常化した風景のひとつの要素となってしまってはいますが、 たまに意識して目を向けてみると、その生命力と存在感を再認識させられます。 家族や仕事といった毎日の生活そのものとなっている存在にもこれとよく似た感覚があります。 日常生活の中にあって当たり前の存在。 しかし、その当たり前が存在してくれているからこそ、日々の生活に潤いと活力が注がれているということを忘れがちです。 ずっと昔のことになりますが、鎌倉の円覚寺というお寺で1週間とまりこんでの座禅修行をしたことがあります。 横浜に本社のあった貿易会社の新人研修として参加したものですが、そうした禅修行をされたことのあるかたはご存知の通り、言葉をはっすることも音を立てて食事をすることもいっさいの私欲を禁止され、ただひたすら座禅を組んで無心でいる状態を続けます。 確か、夜の9時に消灯して翌日の早朝3時に起床し、起きている間は座禅をしているかお坊さんの講和をきいているか、食事、掃除をしているか、の繰り返しです。 円覚寺の山門の下には、ローカルな電車が走っていて、夜になると静まり返ったお寺の大広間でせんべい布団に横になりながら、その電車の走る「ガタンゴトン」という音の中に普通の生活をしている人のごく当たり前の日常を感じ、ありきたりの日常すらも、それがとても貴重で、ありがたいことなんだということを感じたものです。 ただ電車のつり革に掴まって立っているという日常すらも、誰に強制されるわけでもなくそれができるということがいかに自由で、そしてありがたいことかということを感じるのです。 もちろん、こうしたことは、禅修行のような環境に身をおかなくても、たとえば、国内外にかかわらず出張などで日常生活から逸脱せざるを得ない状況になったりすると、結構感じることができるものです。 自由に日常生活を送れるということは、本当はとても有難いことなんだということは、日常から逸脱して初めて感じるものではありますが、 そうした状況でないときだからこそ、「当たり前」の存在が、いかに「有難い存在」なのかを意識の片隅においておきたいと思っています。 観葉植物を見ながら、そんなことをふと考えていました。 ブログ仲間のワンクリックに感謝! お寄りいただきありがとうございます。 貴重なワンクリックに更なる感謝。 クリックするだけで、無料で募金ができます。 クリック募金とは、クリック募金サイト上の募金ボタンをクリックするだけで、無料で募金ができる仕組みです。 あなたに代わって、スポンサー企業が寄付をするのであなたには一切お金がかかりません。 左のオレンジ色のバナーをクリックしてその先に表示される案内に従って、クリックを頂けましたら幸いです。 こんな形で誰かの命が救われて笑顔が見れたら素敵なことですね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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