一ノ堰の基盤整備について1
2020.7.29
1 歴史的な流れ
そもそも一ノ堰は、古来から純農村集落地域です。
士族は、2軒ありましたが、いずれも農家。
集落みんなが、農家!
明治8年の区画改正による若松県管内地誌資料(附 村高・人口・戸数明細)によると、
一ノ堰村の
コメの収穫高は、868石9斗1升8合:約130,337kg → 2,172俵/60kg
戸数は、56戸
人口は、321人
南青木組管内では、御山村に次ぎ2番目の収穫量の多さでした。
一ノ堰村の耕地整理(基盤整備)の歴史は、明治38年の大凶作から始まります。
この大凶作によって、会津中の農家に与えた損害は甚大なものであったため、これを契機に農事の改良が促進され、会津の各地で耕地整理(基盤整備)が進められました。
そのような状況に中で、一ノ堰村(当時)は非常にタイムリーな好条件によって基盤整備を行うこととなります。
当時大川沿岸の、7町3反余(約72,397.02平米)の国有林野の払い下げを請けるのが動機の一つとなっています。
これは、この国有林野が当時若松のとある方に払い下げが決まっていたのですが、この土地がまだ未登記であったため、地区の代表等が県に出向いて調べたところ、この国有林野を含めて基盤整備をすれば、地元にこの国有林野が換地されるという指導が県からあったのです。
それを踏まえた地区の代表たちの尽力により、国有林野を含めた一ノ堰村全域の農地の基盤整備が、大正2年に起工されています。
整備前の面積が、 95町5反3畝余(約 947,112平米)
整備後の面積が、127町2畝余 (約1,259,510平米)
32町歩余の増加でありました。
この国有林野の払い下げを伴った基盤整備によって得た田地が、今の共有地であり、今回の基盤整備前の圃場でした。
一ノ堰集落のために、この偉業に尽力されたのは、上組の栗城さんや深谷さん、羽黒組の高橋さん等の祖先の方々です。
決して個人の利益誘導をされた方はいませんでした。
逆に、共有地という宝を地区に与えてくれました。
しかし、当時の農道は狭く幅6尺(約1.8m)がほとんどで、荷車・リヤカーの通行が限界でした。
戦後農作業の近代化が進み、トラクター、コンバイン、軽トラック等が農業の中心となってくると、余りにも狭すぎる農道でした。
また、用水路は土側溝であり、堀上は春の大切な重労働となり、効率的な用排水管理には、無理がありました。
田は、1枚約1反歩(約991.74平米)弱と小さく、用水も上田からのこぼれ水を利用するというものでした。
時は、ガット・ウルグアイラウンド交渉により、貿易の自由化が叫ばれ、農業も生産性を上げることが急務とされた時代に入っていきます。
ー続くー