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テーマ:ベトナム好き集まれ(2187)
カテゴリ:カメラ画像入り確定レポート
また、更新の間隔が空いてしまいました…。
maman.mさん、コメントありがとうございました。「三流映画チック」、ご慧眼です、ご卓見です。全く同意見です。小林旭か石原裕次郎が出てきそうですよね。 うー、ちょっと疲れております。この三連休の旅行中に携帯からアップした日記が「カテゴリ未分類」のままでしたので、チクチクとカテゴリー分けをしておりました。ついでに当初アップ日時の記入なんかもやってましたので、数時間の作業になってしまい、且つ、まだ終わってません。はー。 それにしても、実況レポートを読み返して思うのですが、新幹線つばさ号と東北本線開業120周年記念号の併走は大した企画ですよね。運転技量が全然違うのです。VIVA!、JR東日本仙台支社営業部!。 一方で、凄くないのが、今日のSUICAシステムのダウンです。何をやっているのか…。 軽く、ベトナムの続きをご紹介します。 前回の日記で、大統領官邸を終わる予定だったのですが、積み残しです。大統領官邸に設置されていた放送局施設です。南ベトナムは本当に不幸な国でした。傀儡政権であったゴ・ディン・ジエムが米国政府の一部の差し金で暗殺されると(ケネディ政権の時期でした、色々な説がありますけど、ケネディはゴ・ディン・ジエムを殺害せずに、国外に亡命させると言う説明を受けていたと言う話を聞いたことがありますが、藪の中…)、毎週のようにクーデターが発生したのでございます。 まあ、その後に、グエン・バン・チューが政権を握ると安定(と言ってもクーデターが起きなくなるだけで、サイゴンでは、共産主義者によるテロの毎日だったりした訳なんですけど)しますが。で、ここから、説明なんですが、クーデタ-を起こした後に、最初に行うことは、放送局の確保なんですねえ。当たり前ですが、武装蜂起した直後は、政権側と反乱側のどっちが勝つか分かりません。曖昧模糊とした状況になります。多くの勢力は、勝ちそうな方はどちらかを見極め、勝つ方に付こうとするわけです。 そんな状態になりますので、クーデターを敢行する場合には、決起後速やかにマスコミを押さえ込み、勝利宣言を行う必要がある訳なのです。放送局を押さえ込んで、国中に「政権を握ったのは我々決起軍である!」と宣言して、既成事実を作り上げることが重要でございます。政権側のカウンターを押さえ込むために、軍隊の司令部・警察本部・新聞社等のその他マスコミ・議会・政府本部なんかも押さえます。クーデターを行う際の定石でございますね。我が国でも2・26事件と言う本格的なクーデター未遂事件がありました。彼らは放送局を押さえていないのでございますね。それで、例の有名な「天皇陛下のご命令が発せられたのである。今からでも決して遅くないから原隊に帰れ。軍旗に手向かうな。」と言う放送をやられてしまう訳なんですねえ。まあ、2・26事件の際には、両勢力とも昭和天皇の信を競っていた訳で、昭和天皇は最初から法治主義の統制派支持でございましたから、勝負は始まる前から決まっていたりもするのでございますが…。 横道にそれましたが、2・26事件に関しては、色々なストーリーがあります。軍法会議に引きずり出されはしませんでしたが、決起側将校に組した複数の将官が居ましたし(彼ら将官が叛乱に関与したことはかなり確からしいのです)、決起を事前に把握していた憲兵情報が何故か握りつぶされた形跡もありますし、一方で、決起側将校のバックグラウンドも面白い。帝国陸軍の内部抗争的に捉えれば、2・26事件で、統制派の勝利と皇道派の敗北が決定的になりました。皇道派と見なされた将校は、昇進すれども、二度と陸軍中央部には戻らず、現地部隊を巡ることになりました。山下奉文なんかがそうですね。 話がそれまくってしまいました。何を言いたかったかというと、大統領官邸に放送設備を設けておけば、クーデターが発生した時に、大統領が直接放送を行って、国民に、「大統領は無事、権力を掌握している、叛乱軍を鎮圧せよ」と語りかけることができるからなんんです。クーデター対策として、大統領官邸に放送局設備がある訳です。日本の場合は最後のクーデター未遂事件(終戦間際のドタバタは別にして)から71年も経過しています。現在の首相官邸に臨時放送設備があるのかどうか…。 大統領官邸の屋上でございます。四方楼・四方室という表示があります。展望室と言う意味でしょうか…。 展望室から見下ろした前庭でございます。サイゴン陥落・南ベトナム消滅のあの日、この庭に、共産主義者の軍隊が、ソビエト製の戦車を連ねて突進してきた訳です。と言っても、南ベトナムにもはや抵抗する力は無く、戦闘は無かったみたいです。 旧南ベトナム大統領官邸の敷地内に展示されている、共産軍の戦車でございます。前の日記にも書いたとおりですが、ベトナム戦争末期は、裸足のベトコンと南ベトナム傀儡政府の悪逆非道な秘密警察や軍隊、という構図ではありませんでした。ソビエト赤軍の愛弟子である北ベトナム軍は、ゲリラではありませんでした。有力な機械化兵力であり、ソビエト赤軍のお家芸である、縦深突破戦術を敢行する能力を有する、東南アジアでもっとも有能で有力な地上打撃兵力でございました。 戦車の逆サイドはヘリポートになっておりました。サイゴン陥落直前に、南ベトナムから、南シナ海を遊弋する合衆国海軍の空母に向けて何機ものヘリコプターが飛び去るシーンは世界中に流されましたので、覚えていらっしゃる方も多いと思います。復讐に燃える共産主義者に占領された後のサイゴンが阿鼻叫喚の地獄になることは、火を見るよりも明らかでございました。ヘリに乗れるか否かは、生きるか死ぬかであった訳でございます。 北ベトナム軍がこの建物を確保して、長い長いベトナム戦争は終結することになりました。1960頃に開始され、1975年まで続いた訳でございます。在ベトナム米軍は最大の時の戦力は50万でした。米兵の戦死は6万人弱でした。合掌。この後、アメリカはベトナム後遺症に延々と苦しめられることになる訳です。 ベトナム側の死傷者数の詳しい統計は知りませんけど、多分1000万以上死んでいると推測しています(人口ピラミッドを眺めながら)。ベトナムの苦難は、統一では終わりませんでした。カンボジアでポルポト政権が文革期の中国の支援を得て無茶苦茶をやる中で(プロレタリア文化大革命期の中国は「極左冒険主義」の固まりみたいな国でした。もうそれはそれは無茶苦茶をやる訳です。ソビエトロシアが痺れあがるような…。)、中国やカンボジアとの緊張が高まり、中越戦争とかカンボジア侵攻とか…。80年代半ばまで、北ベトナム軍の兵士に休息は無かったわけです。 こんな感じで大統領官邸見物を終えました。この画像は裏口です。まあ、色々ありましたが、世界の分断国家の殆んどは統一されてしまいました。ベトナム・ドイツ・イエメン…。現在残っているのは、中国と朝鮮半島だけになってしまいました(キプロスがあるじゃんか、と突っ込んだあなた。鋭いです。でもあれは、ちょっと違うと思うのです。宗教が違うし、少なくとも北側は、全キプロスの統一は全然望んでいない訳です。やはり分断国家たるもの、「正しいのはこっちの政府だ。領土は全部こっちのもんだ。」とお互いに言い合わないと…)。 旧南ベトナムの大統領官邸をご紹介しましたので、次に、旧南ベトナムの国会議事堂を訪れました。この建物は現在はオペラハウスになっています。 週末はこんな感じで市民コンサートをやってますので、内部には入れませんでした。 残念ながら、現在に至るまで、ハノイを訪れるチャンスがないのですが、どんな建物なんでしょうねえ…。1950年代のソビエトは「スターリンゴシック」と呼ばれる、大きくて醜い建物が大好きでした。ワルシャワの文化宮殿なんかが悪名高いです。中国の北京にはスターリンゴシック建築が何箇所か残っています。人民大会堂とか、北京駅とか、人民解放軍軍事博物館とかです。大変見応えがある。ハノイにもそんな建物があるのでしょうか…。 最後の画像は、女性です。見れば分かる?、おっしゃる通りです。 市民コンサートの司会をやっておりました。アオザイが眩しかったです…。小柄で細く美しい…。 これでサイゴン(ホーチミン市)観光はお終いです。次回は帰路をレポートして、次のシリーズに行こうと思っております。 【昨日のマイレージジャンキー的な成果】 朝食(SUICA) 4マイル(JL) ローソン(JCB) 3×1.5倍≒約4マイル(NH) 良ければ一票お願いします。 過去の旅行先の一覧はこちらに! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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