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カテゴリ:雑感
この物語りの前編にあたる「ケインとアベル」もそうであったが、作者のワールドにはひとつの法則があるようである。つまり人間というものはごく少数の優れた人間と多数の凡人にわけられるという法則である。主人公をはじめ主要人物はもっぱら前者であり、後者はその他大勢か惨めな悪役としてしか描かれていない。こういう物語を読む読者も、もちろん凡人なのだが、小説家としての作者の手腕によって主人公に感情移入しながら読んでいく。こういう小説って、何か自分がとてつもなくパワフルで優れた人間になったような気になって元気が出るゆえんである。
※ 「ケインとアベル」でWASPの銀行家とポーランド移民のホテル王を描いた作者だが、この「ロスノフスキ家の娘」はそのホテル王の娘が大統領になるまでの物語りである。ケインもアベルも傑出した人物であったが、アベルの娘フロレンティナも、もちろんそこらのマドンナも真っ青になるくらいの完璧な女性である。数か国語を操り、ラドクリフ大を首席で卒業する知性もさることながら、人がふりかえるほどの美人で、家事なども完璧にこなす。父の反対をおして銀行家の息子と結婚してからは、洋装店の売り子として働き始め、またたくまに自分の店を持って、その店を一大チェーンにまでしてしまう。これだけをみるとおおよそ感情移入できそうもない主人公なのだが、それが実に魅力的なのである。 ※ 主人公フロレンティナは実に優秀な女性であるが、同時に様々な挫折体験もする。子供時代にうけたポーランド系故の差別やWASP青年との失恋。傲慢さゆえの失敗や不出来な娘等。しかし彼女はそうしたものを実に賢くのりこえていくばかりではなく、そうしたものをも成長の糧にしてしまう。特に素行の悪い娘について、過去の失恋体験などを語り、友人として接することでその親子なりの絆をつくっていくところなど示唆的である。 彼女が米国大統領に就任するところで、この物語は終るが、読みおえてみるとこんな政治家がいればよいと思ってしまう。 ※ いったい彼女の政治家として優れているところはなんなのだろうか。それは、個々の人間の問題と国家や社会全体の問題を同時に考えることができ、国防の問題と福祉の問題など別分野とされる問題をも相互に関連づけてとらえることができる能力ではないか。特に、公園の元軍人のホームレスと言葉を交わした体験から、福祉をとりまく諸問題をあぶり出すところは感動的であるし、ソ連軍の南アジア侵攻をくいとめる緊迫感あるやりとりも面白い。女性だから男性だからというのを強調すると差別になりかねないが、こうした様々な問題を有機的に連携させて全体としてベストのものをめざす能力というのは、案外、女性の方がむいているのかもしれない。 ※ 作者がこの物語を書いた頃は女性の米国大統領という話は大風呂敷をひろげすぎだといわれたらしいが、今だったらそれを大風呂敷だという人はいまい。日本のマドンナの中には総理になってほしいと思うようなのはとてもいないが、「女性だから総理大臣や大統領になれない。」などと考える人はぐっと減ってきたことは事実である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年02月14日 00時59分48秒
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