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カテゴリ:キリシタン
![]() 【伊那谷南部】 伊那谷南部と題しましたが、中央部といった方がいいかもしれません。辰野町から伊那谷南部の飯田市の南側付近までで、直線でおおよそ70kmほどあります。東側に南アルプス、西側に中央アルプスの高峰が並んでいます。ネット上に、この伊那谷周辺を飛行機から撮った写真が数多く載っているサイトがありました。見応えのある写真集サイトなのですが、<伊那谷 航空写真>で検索するとヒットします。 京極高知が飯田城主だった時に、伊那谷全体でキリシタンが盛んになったといわれていますが、会津と同じです。「蒲生氏郷の時に、会津でキリシタンが盛んになった」ということを、30年以上前に会津へ最初に住みはじめた時に耳にしました。そして、関ヶ原の戦いが終わってすぐに、現在の宮田村から松本平の南部までが、保科正光の領地になりました。そして、保科正之公の時代が続き、保科正之公が山形最上へ移封されると、鳥居氏が高遠藩主になり、その後、「内藤新宿」で有名な内藤氏が高遠藩主になっています。 「この辺りにも、キリシタンのものが何故かたくさん残っているのです」と、あるお寺でお伺いしました。宗門人別制度や五人組によって、キリシタンは厳しく取り締まられていたと、学校の教科書には記されているのですが、しかし、現実にはかなりはっきりとしたキリシタンのモノが残っていますし、不思議な習慣も残っています。 信州はそれだけではありません。松本平西部や松本市から大町市に掛けても、キリシタンの痕跡がかなり残っていますし、善光寺平から小諸市あるいは軽井沢町にかけてもキリシタンの痕跡がしっかりと残っています。宗門人別制度=寺請制度=檀家制度はキリシタンの取り締まりのために作られたとされていますが、現代まで隠れ続けているカクレキリシタンが九州にいることも事実です。彼らは、間違いなく宗門人別制度に組み込まれていました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.08.08 08:55:12
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