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テーマ:素敵なスポーツ選手(7)
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花巻東高校の大谷翔平選手は、結局甲子園では1勝もできませんでした。
しかし、打っては、3年生の甲子園の選抜大会で、春夏連覇した大阪桐蔭高校のエースの藤波慎太郎投手からホームランを打ち、投げては、3年生の夏の甲子園大会の予選・岩手大会の準決勝で、アマチャア史上最速となる160kmを投げました。 高校3年のドラフト会議では、NPB(日本プロ野球)だけでなく、MLB(アメリカ大リーグ)からも、大谷翔平選手は注目され、当初、「大リーグに挑戦する」と表明しました。 多くの日本の球団が大谷翔平選手の指名を見送る中、北海道日本ハムファイターズだけは、「大谷君にはもうしわけないが、1位指名させていただきます。」と指名を表明しました。 ドラフト会議でも、公言どおり日本ハムが1位で単独指名し、4回に渡る交渉を行い、「大谷翔平君、夢への道しるべ」と題する30ページの資料を開示し、「直接メジャーへ行くより、日本のプロ野球で実力をつけた選手の方が、メジャーで活躍できる確率が高いこと」と、「投手と打者の二刀流での育成プラン」が示されました。 結果的に、栗山秀樹監督を中心とした大谷翔平育成プランに、大谷自身が深い感銘を受け、契約金1億円+出来高払い5000万円、年俸1500万円(推定)で契約しました。 この時、大谷翔平の「二刀流(バッターと投手の両方を行う選手)」が、球団公認となりました。 また、前年の2011年まで日本ハムに在籍し、メジャーのテキサス・レンジャーズに移籍したダルビッシュ有選手がつけていた「背番号11」を受けつぎました。 大谷翔平選手が、日本プロ野球にデビューした2013年は、栗山英樹監督のもと日本ハムで活躍し、投手としては、13試合に登板し、3勝0敗、防御率4.23を記録しました。また、打者としては77試合に出場し、打率.238、3本塁打、20打点を記録しました。 2年目の2014年は、投手として、24試合に登板し、11勝4敗、防御率2.61を記録し、打者としては、86試合に出場し、打率.274、10本塁打、31打点を記録しました。 この年、球速162kmのボールを投げ、日本プロ野球の最速タイ記録を作りました。また、「NPB(日本プロ野球)」で史上初の「2桁勝利、2桁ホームラン」を達成し、オフには年俸1億円(推定)を達成しました。 3年目の2015年は、投手として、15勝、防御率2.24、勝率.750で、最多勝利、最優勝 防御率、最高勝率の投手3冠を達成した一方で、野手としては、打率.202、5本塁打、17打点と、あまりいい結果をだせませんでした。 4年目の2016年は、投手として21試合に登板し、10勝4敗、防御率1.86を記録したい一方で、打者でも打率.322、ホームラン22本、打点67と活躍し、リーグ優勝、そして日本シリーズも制し、大谷選手初の日本一に貢献しています。 この年、日本プロ野球史上最速の165kmを出し、「10勝、100安打、20本塁打」も達成しています。 日本のプロ野球でプレーした5年目の2017年は、ケガの影響もあり、投手としては8試合に登板し、3勝5敗に終わっています。また、打者としても65試合に出場し、8本塁打、31打点と、低迷しています。 この年の10月、東京都内の病院で内視鏡による「右足関節有痛性三角骨除去術」を受けました。 11月には、メジャー(MLB)挑戦を表明し、12月にアメリカン・リーグのロサンゼルス・エンゼルスと契約しました。 日本のプロ野球に在籍した5年間の成績は、投手としては、85試合に登板し42勝15敗、 防御率2.52、打者としては、通算打率.286、ホームラン48本です。 日本ハム時代の大谷翔平選手が幸運だったのは、5年間ずっと栗山英樹監督のもとで、プレーできたことだと思います。 二刀流の起用方法については、賛否両論があり、「こんなでたらめな起用法は、草野球でもやらない。」との批判も多くありました。 しかし、栗山監督が自分が全責任を負う形で、当初の約束どおり、二刀流を続けてくれたからこそ、 100年ぶりに、「投手と野手は別々」という常識を覆した大谷翔平選手が、野球の神様・ベーブルースと比較される「野球の母国・アメリカ」でも、特別な存在となったと思います。 「人生が夢を作るんじゃない。夢が人生を作るんだ。」(大谷翔平) <日本ハム時代の大谷翔平選手>
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最終更新日
2023.07.23 09:13:07
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