今日は長い間リビアのカダフィ大佐死亡のニュースを見ていました。CNNから始まり、ABC,CBS,NBC,FOXと各チャンネルの報道を観続けていたものですから妻に呆れられてしまいました。いつかこの日は来るだろうと思っていましたが、それが今日でした。映像に映し出されるカダフィ大佐の様子を観て、独裁者の最後の哀れさを感じています。NATOによる爆撃で傷付いた後、古い排水溝の中に隠れているところを引き出され、上半身裸の姿で顔は左半分血染めになった姿が哀れでした。彼に反抗して立ち上がった民衆を「ネズミ共」と蔑んでいましたが、排水溝の中に隠れた彼こそネズミのように思われました。民衆に引き回され、こづかれる彼の姿には過去の威厳も傲慢さもありませんでした。
イラクのサダム・フセインも地下の狭い場所に隠れているところを捕まりました。そして最後は絞首刑になりました。いずれの国でも独裁者の終わりは悲しいものです。私はルーマニアのブカレストを訪ねたことがありますが、1989年にチャウシェスク大統領夫妻が処刑された場所を見ました。彼らはリビアに亡命しようとルーマニアを抜け出す寸前に捕まり、処刑されました。処刑は1989年の12月25日、クリスマスの日でした。処刑され、地面に捨て置かれた二人の姿の映像は世界中に報道され、いまでもそのシーンが目に浮かびます。
42年間の独裁で多くの人々の憎しみを得ていたのでしょう。今日のニュースでインタビューを受けた人々は全てが「素晴らしい日だ。喜ぶべき日だ」と語っていました。誰一人としてそれ以外の言葉を発する人はいませんでした。多分公共的なテレビの前では話せないのでしょうが、独裁者とは言え、カダフィ大佐の最後の姿は人間として哀れで悲しいものでした。独裁者がいなくなったことへの喜びと共に、やはり一人の人間の死に対しては、もう少し惻隠の情があっても良いのではないかと思いました。
それにしても独裁が長く続くと、じょじょに周りが見えなくなり、イエスマンの側近だけに囲まれ、民衆の心と離れて行くようです。カダフィ大佐もまだ半年ほど前であれば、民衆と殺しあうことなく、無事に国外亡命も出来たのかも知れません。しかし対決、弾圧の道を突っ走り、最後は今日の形になりました。「自分は最後までリビアの地に留まり、最後の弾丸の一発まで戦う」と言っていた彼ですから、その点では自分の言葉を守ったことになりますが、それでも彼の最後の姿は哀れで悲しいものでした。(終り)
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Last updated
2011.10.21 14:47:10
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