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カテゴリ:プラモデル・艦艇
またまたいつものように続きが遅くなってしまいました(汗)。武蔵の話最終章です。 昭和19(1944)年10月24日15時頃、米艦載機群の第5次攻撃隊(空母エンタープライズ、フランクリン、イントレピッド、カポット隊)、108機が栗田艦隊へ殺到しました。 この時も攻撃隊の大半が、武蔵に集中しました。 武蔵を攻撃したエンタープライズ隊はこの時の武蔵の様子を、「油が流出しているが火災は認められず。艦首が沈下しているものの艦は水平を保っている」と報告しています。 一見すると素通りしてしまいそうになりますが、この報告は武蔵の強靱な防御力を見せつけています。 第4次攻撃までに武蔵は少なくとも魚雷11本、7発以上の爆弾が命中しています。大和級以外の戦艦なら沈んでもおかしくない被弾量です(小型の駆逐艦なら、爆弾1発、魚雷1本で致命傷になります)。 しかし武蔵はまだ浮かんでいました。米軍機の攻撃が第4次で終了していたら、生き延びられていたかも知れません。 艦内が満杯の武蔵に、満足な回避運動をする余力はなく、多数被弾しました(米軍側の記録だと、1000ポンド爆弾(日本側の大きさだと500kg爆弾に相当)11発、魚雷8本を命中させたとあります)。 この時、特に深刻だったのは、戦闘艦橋と作戦室に爆弾が命中し、艦長の猪口敏平少将が重傷を負い、航海長仮屋實大佐、高射長廣瀬栄助少佐など80名近い艦橋要員が戦死もしくは負傷したため、武蔵の指揮機能が一時的に麻痺しました。また、戦闘の経緯を把握していた幹部が戦死したため、武蔵の戦闘記録はかなり不正確なものになってしまいます。 翌25日にレイテ島へ向かうのを諦め「謎の反転」をすることで、今でも批判される栗田ですが、彼は別に臆病というわけではありません。延べ280機も米軍機の波状攻撃に見舞われては、このまま進撃するのは無理と考えたのは自然な判断だったでしょう(作戦中、意見が対立することが多かった第一戦隊司令官宇垣纏中将も、この判断に反対していません)。 栗田はいったん艦隊を反転させて、引き上げるような動きを見せました。トリックと言うのは単純なものですが、米軍は引っかかりました。 栗田艦隊反転の報告を聞いたウィリアム・ハルゼー大将(アメリカ第3艦隊司令官)は、「やった! 奴らを押し戻したぞ!」と大喜びでパイロットたちを労いました。そして視線を北に向けました。 味方潜水艦などの報告で、北から日本の空母機動部隊(小沢治三郎中将の第3艦隊)が接近してきていることを把握していたのです。次は「本命」の日本空母との戦いでした。 ハルゼーはサンベルナルジノ海峡の監視を解き、全戦力を北に振り向けました。そしてこの時も、レイテ島で上陸支援をおこなっているキンケイド中将の第7艦隊に、戦闘の詳細や自艦隊の動きを伝えようとしませんでした。 この事が、翌日アメリカ側に大きな被害と大混乱を引き起こす事になりますが、それは別の話です。 左舷に15度傾斜し、艦首は海中に没して、第1砲塔付近まで波が洗うようになりました。 艦内では必死の防水・排水作業が続いていましたが、入り込んだ大量の海水の圧力で、角材がマッチ棒のように折れ、分厚い鉄板がベニヤ板のようにしなる有様では、作業ははかどりません。 排水ポンプはフル稼働していましたが、流れ込む海水の方が多く、浸水が缶室、機械室へと広がり、電力が低下していくに従って、ポンプは動力を失い、傾斜は大きくなっていきました。 17時頃、瀕死の武蔵の姿を姉妹艦大和で見た宇垣中将は、著書「戦藻録」に、 「本反転に於いて麾下の片腕たる武蔵の傍を過ぐ。損傷の姿いたましき限りなり。凡ての注水可能部は満水し終り、左舷に傾斜10度位、御紋章は表し居るも艦首突込み、砲塔前の上甲板最低線漸く水上に在り。慰めの言葉も適当なるもの即座に出でぬなり」 「即ち武蔵は大和を救い、戦隊のみならず艦隊全般を自らの犠牲において掩護救出せるものといわざるべからず」 と記しています。乗員たちは自嘲を込めて、武蔵を「被害担当艦」と呼びましたが、宇垣からみても、武蔵は敵の攻撃を引き受けてくれた艦だったのです。 事実、シブヤン海海戦で武蔵以外の艦は損傷した艦こそ多くでましたが、沈没艦は1隻もでていません。武蔵が一手に米軍の攻撃を引き受けてくれた結果でした。 艦首が大きく沈み込んで自力航行が難しいため、いったん浅瀬に艦首を座礁させて沈没を防ぎ、修理して海水を排水して浮力を回復させてから、コロン島へ向かうことにしたのです。 18時26分、今まで武蔵を守ってくれていた重巡洋艦利根が栗田艦隊への復帰を命じられ、武蔵の傍らをさりました。 利根艦長の黛治夫大佐は、「ザイドリッツの戦例に鑑み、艦首浮力の保持に努められよ」とアドバイスしています。 ザイドリッツは第1次大戦時のドイツ巡洋戦艦で、ユトランド沖海戦(1916年5月31日~6月1日)で被弾、艦首が沈降しましたが、後進して港までたどり着いています。艦首の浮力さえ回復できれば沈没は免れられる。黛はそう考えたのです。 また駆逐艦島風が武蔵左舷に横付けして、重巡摩耶の乗員や負傷者約600名を収容して戦場を離脱し、武蔵の傍らは駆逐艦清霜と浜風だけになりました。 19時を回ると、艦の傾斜は一層酷くなり、座礁させられる場所もなく、復旧は絶望的になりました。 もはやこれまでと、猪口艦長は乗員を退艦させるため、清霜と浜風に「横付けせよ」と命じました。 しかし2隻は、不安定に揺れ動く武蔵を見て浮力の喪失は近いと悟り、武蔵から100m付近で停船して横付けはしませんでした。6万トンを超す武蔵が沈没すれば、2千トン程度の大きさの駆逐艦では、引きずり込まれて沈んでしまうからです。 この時半壊した艦橋で脱出していく乗員たちを、静かに見送る猪口艦長の姿が目撃されています。第5次攻撃で重傷を負った彼は、副長の加藤憲吉中佐に後事を託して艦と運命を共にする道を選んだのです。 19時40分頃、武蔵は左舷から転覆し、艦首から沈没しました。 武蔵乗員2399名中、猪口艦長以下1023名が戦死し、1376名が清霜と浜風に救助されました(生き残った乗員の大半は、後日のルソン島の地上戦にかり出されて、約1千名が戦死することになります)。 宇垣の言葉どおり、大和は翌昭和20(1945)年4月7日の防ノ岬沖海戦で、米艦載機の波状攻撃の前に、沖縄にたどり着けずに沈没することになります。 10月24日夜半、いったん西に回避した栗田艦隊は再集結し、再びレイテ島目指して東進し、日付が25日に変わる頃、サンベルナルジノ海峡を突破しました。そして早朝、栗田艦隊は米艦隊と遭遇戦(サマール沖海戦)を展開することになります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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