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カテゴリ:プラモデル・艦艇
最後に、ライン演習作戦のまとめて、その後のドイツ海軍に与えた影響についてまとめてみたいと思います。 ドイツ側の作戦意図は、イギリスの海上輸送路に大打撃を与えて、屈服させることにありました。 日本同様島国であり、資源の大部分を外からの輸入(当時のインドやマレーシアなどは、イギリスの植民地ですから、「輸入」ではなく「輸送」と言った方が正確ですが)に依存していたイギリスの弱点は、海上輸送を寸断されることでした。 もし資源や物資の流入がストップすれば、イギリス経済は破綻し、国民生活は窮乏し、戦争継続は不可能になります。作戦は、イギリスの弱点を的確に捉えたものでした。 しかしビスマルクは、フッドを撃沈したものの、目的のイギリス予想船団を攻撃することが出来ず、逆に撃沈されて作戦は大失敗に終わりました。 なぜ失敗したのか、大きく2つの原因が挙げられます。
・出撃した時期が悪かった(季節的には、少なくとも5ヶ月前に実施するべきだった) ・ビスマルクの性能を過信して、イギリス海軍との戦力差を正しく認識していなかった(リスク管理に失敗した)
と言うことになるでしょう。 また小さなミスや不運が積み重なったこと、ビスマルク喪失の原因となりました。 簡単に列挙しますと、
・ビスマルク乗員の訓練不足 ・出撃が露呈したにもかかわらず、作戦を続行した ・ノルウェーで燃料の補給を受けられないまま出航を余儀なくされ、しかも戦闘で燃料タンクが破損して、燃料不足に陥ってしまった ・レーダーが主砲の爆風で破損し、黙視でしか敵艦を発見することが出来なくなった上に、単艦航行を余儀なくされた ・ドイツ本国ではなく、最短距離のフランスへ進路をとった ・包囲網を突破できたことに気が付かず、長文の電文を打電して再発見され、再び包囲下におかけてしまったこと ・敵航空機の魚雷攻撃によって操舵不能となり、イギリス艦隊の待ち受ける海域へ自ら突き進んでしまったこと
と言うことになるでしょう。 ひとつひとつはたいしたミスではなく、単体では挽回可能なものでしたが、それが連鎖的に積み重なった時、致命傷になってしまったのです。 一言で言って、ビスマルクはツキがなさ過ぎたのです。 大きな要因の方ですが、こちらは当初からきな臭いものでした。 ビスマルクの出撃は、ドイツ海軍総司令官レーダー元帥の政治的な事情(世界大戦がドイツの勝利で終わるまでに、ドイツ海軍も華々しい武勲がほしい)でした。つまりリスク管理を最初から吹っ飛ばした無謀なものでした。 それが作戦の実施時期の無視につながり、出撃後は、現場サイドに柔軟な対応をする余裕を失わせました。 興味深いのは、終生海に対する理解が乏しく、非理性的な要求をすることが多かったヒトラーの方が、今回は正しい見識と意見を述べていたことです。 ヒトラーはイギリス海軍の戦力が、大きく凌駕している点、不測の事態の際に、ビスマルクを助けられる戦艦が1隻もいないこととを勘案して、ビスマルク出撃に消極的でした。しかし海軍側が作戦を強硬に主張し、ヒトラーもこれ以上の反対は、海軍のメンツをつぶしてしまうと、渋々妥協したのです。彼の懸念は的中し、ビスマルクは帰らぬ事となりました。 その後ヒトラーは、残ったテルビッツをビスマルクと同じ目に遭わせないよう、単艦で通商破壊戦に投入することは一切許さず、大型艦による通商破壊戦は終了の方向で進んでいきます。 さらに、この一件でレーダーの采配に不信感を抱くようになったヒトラーは、次第に不満を募らせていきます。 この命令は、後任の海軍総司令官デーニッツ大将の取りなしで実行されなかったものの(デーニッツは潜水艦乗りで、大型艦よりUボートの整備に積極的でしたが、一方で「戦艦は浮かんでいるだけで価値がある。潜在的な戦力で敵にプレッシャーを与えることが出来る」と考えました。事実、ノルウェー沿岸に、戦艦テルビッツやシャルンホルストがいたため、イギリス海軍は大戦後半まで、常に一定以上の戦力を本国に留めて、多大な労力を裂いて警戒しなくてはなりませんでした)、命令を伝え聞いたドイツ海軍水上艦艇乗員の士気は大きく低下しました。 そしてドイツ海軍水上艦艇の最後の出撃となった北岬沖海戦(1943年12月26日)で、戦艦シャルンホルストが、英戦艦デューク・オブ・ヨーク(キングジョージ5世型戦艦3番艦)によって撃沈されると、駆逐艦以上の大きさのドイツ水上艦艇の出撃機会はなくなりました。 艦艇乗りの多くは、潜水艦への配置換えか、海軍歩兵として陸上戦闘に従事することになりました。 つまり、ビスマルク喪失に端を発した波紋は、ドイツ海軍水上艦艇終焉の第一歩になったのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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