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カテゴリ:西暦535年の大噴火
物部氏と蘇我氏の間を、苦労しながらもうまく泳ぎ切った欽明天皇が崩御し、敏達天皇(位572~585年。欽明天皇の子)が即位しました。 570年代になると、古墳がつくられなくなるなど(この時期は、日本史の時代区分では、「古墳時代後期」とされています)、日本社会に変化が出てきていました。 古墳がつくられなくなった理由は、文献には残されていません。 530年代後半から始まった天然痘の流行は、数年おきに発生していましたから、労働人口が低迷した状態が続いており、莫大な労働力を必要とする古墳の作成が控えられるようになった。もしくは、人手が集まらなくなった事が、大きな要因と言われています(ただし関東圏では、この100年後ぐらいまで古墳は作られています。これは天然痘の被害が、近畿ほどではなかったためと考えられています)。 この時期、朝廷では崇仏派と廃仏派の勢力は拮抗しており、敏達天皇も欽明天皇の中立路線を維持していたこともあり、政治的にはやや落ち着いた状態でした。天然痘の流行も、小康状態になっていたようです。 しかしその均衡は、580年代になると大きく崩れることになります。原因は天然痘の大規模な再流行でした。 疫病の再流行を見た大臣蘇我馬子(蘇我稲目の子)は、疫病退散のため新しい寺の建立の許可を求めました。敏達天皇もそれを許しましたが、大連物部守屋(物部尾輿の子)と中臣勝海が反発しました。 「大君よ、どうして私どもの申し上げたことを取り上げないのですか? 蘇我氏が蕃神(異国の神。仏教の事)を広めてこの方、疫病が流行し、民草も死に絶えようとしております。すべて国津神を蔑ろにして、蕃神を崇めたからに相違ございません」 敏達天皇が守屋の言葉に迷ったのは、おそらく仏教が日本にやってきた頃から、天然痘の流行が始まっていることに、彼自身考えることがあったのでしょう。 悩んだ末に敏達天皇は、「(仏教が疫病の原因なのは)明白である。仏法をやめよ」と、仏教禁止令を出しました(585年)。 蘇我氏が建立した寺は焼かれ、仏像は壊されて僧侶は鞭うたれました。 蘇我馬子も失脚寸前となりましたが、ここで思わぬ事態が起きました。仏教禁止令を出した敏達天皇が天然痘で倒れ、崩御してしまったのです。 この出来事は、崇仏派が息を吹き返すきっかけになりました。 なにせ仏教を禁止した途端、本人が天然痘で没したわけですから、あたかも「仏罰」に当たったように見えてしまったのです。敏達天皇崩御で、廃仏を主張した物部氏や中臣氏の権威が失墜してしまったのです。 そんな事情もあったか、新たに天皇になった用明天皇(位585~587年。敏達天皇の異母弟で聖徳太子の父)は、仏教を重んじる人物で、即位後、直ちに仏教禁止令を撤回しました。 しかし再び天然痘が流行し、用明天皇が罹患して倒れると、朝廷内の動揺は激しくなりました。今度は仏教を重んじた天皇が天然痘に倒れたからです。 ここにいたり、蘇我氏と物部氏の対立は、宗教論争から武力闘争へ転換していきました。 敏達天皇の仏教禁止令に始まり、双方が激しく争って両者のパワーバランスが大きく崩れてしまったため、もはや政治的な妥協ができる状況ではなくなってしまっていたのです。 587年4月に用明天皇が崩御すると、物部守屋は廃仏派の穴穂部皇子(敏達天皇、用明天皇の異母弟)を再度天皇に押し(前回は用明天皇に敗れました)、蘇我馬子は泊瀬部皇子(後の崇峻天皇。位587~592年。穴穂部皇子の同母弟)を推挙して、両者は激しく対立しました。 そんな中、守屋の盟友中臣勝海が蘇我馬子の命を受けた舎人(皇族や豪族の側近)の迹見赤檮によって暗殺されました。 自分にも暗殺の手が伸びることを恐れた守屋は、領地のある河内国(現在の大阪府東部)に引き上げてしまい、後援者を失った穴穂部皇子は、587年6月、馬子に暗殺されました(穴穂部皇子は素行の悪い人物だったようで、彼を推した物部守屋からも途中で半ば見限られ、額田部皇女(後の推古天皇。欽明天皇の娘で敏達天皇の異母妹で妃。用明天皇の同母妹)からも恨まれて(敏達天皇の死後、彼女に自分の妃になるよう穴穂部皇子から迫られたことが、彼女から恨みを買った理由と言われています)、穴穂部皇子討伐を認める詔を、馬子に与えたためです)。 こうして朝廷の実権を握った馬子は、領地にこもった守屋が挙兵するかもしれないと考え、群臣と図って物部氏討伐を決めました。ここに両者は、戦争へと突き進んでいくことになります。 587年7月、蘇我馬子は、泊瀬部皇子、竹田皇子(敏達天皇と額田部皇女の息子)、難波王子(敏達天皇の子。竹田皇子の異母兄)、厩戸皇子(聖徳太子。近年実在しなかった説もありますが、このブログでは、従来通り実在したというの視点で見ていきたいと思います)などの皇族を擁し、諸豪族の兵を集めて官軍としての体裁を整えると、物部氏本拠地の河内国渋川郡(現在の東大阪市衣摺あたり)へ侵攻しました。 朝廷軍は物部軍の数倍の兵力を投入して(実数は双方とも不明です)、援軍の期待出来ない物部氏に対して、戦力的な優勢を確保していました。 両軍は餌香川原(現在の大阪府藤井寺市付近の、石川(大和川水系の河川)の河原)で衝突しました。朝廷軍は物部軍を破り、物部守屋の館へ攻め寄せましたが、それは巧妙な罠でした。 物部側は、邸付近に稲城(稲穂を利用した防御施設のようです)を築き、勝ちに乗じた朝廷軍が無防備に迫ったところを、つかさず矢を射かけ、大損害を受けた朝廷軍は敗退しました。物部氏大和朝廷内で軍事を司った氏族であり、戦い馴れしていました(物部氏の業績としては、528年に起きた磐井の乱(筑紫国の国造(くにのみやつこ。朝廷から任命された官職)磐井がヤマト朝廷と対立して討伐されました。この事件は謎が多いですが、ヤマト政権と九州豪族の、朝鮮半島の権益を巡る対立が背景にあったと考えられています)を鎮定した大連物部麁鹿火の活躍が有名です)。餌香川原で破れてみせたのも、朝廷軍を油断させて誘い込む罠だったのです。 この時、難波皇子が戦死したようで、皇族から戦死者を出した失態に、馬子は意気消沈して大和(奈良県)へ撤退を主張したと伝えられています。 伝説では、ここで戦局を変えたのが厩戸皇子でした。 馬子や将兵が戦意喪失しているのをみた厩戸皇子は、白膠木(ヌルデの木)を切って四天王の像を作り、仏法の弘通に努めると誓いを立てて将兵を鼓舞したところ、朝廷軍将兵は戦意を取り戻したと伝えられています。 朝廷軍の再度の攻撃に、大木に登って指揮を執っていた物部守屋が、朝廷軍の迹見赤檮に射殺されると、物部軍は総崩れとなって敗北し、物部氏は滅びました。 そして物部氏の滅亡をもって、ヤマト朝廷は仏教を受け入れることを正式に決めました。 厩戸皇子は祈願通り、摂津国(大阪府北中部と兵庫県の一部)に四天王寺(現在の大阪府大阪市天王寺区)を建立し、丁未の乱で命を落とした両軍の戦死者の霊を弔い、馬子も法興寺(別名飛鳥寺。奈良に移ってからは元興寺となりました)を建立しました。 これを見て、それまで静観していた他の豪族たちも、こぞって寺を建てるようになり、畿内で古墳は作られなくなりました。 次回は、日本の仏教伝来の、まとめ的な話をしたいと思います。
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